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名古屋高等女学校(現名古屋女子大)
写真は私有の私の母のものを平成十三年(2001)一月、当時の学長越原一郎様に送り、お尋ねしたところ懇切丁寧なご返事を頂き「もえのぼる(越原春子伝)」も頂戴致しました。「小集」は同じものが合致しました。
昭和四年卒業アルバムの母のページが存在し送って頂きました。母の照会をしたのは初めてでしたが完全な確認が出来た事を感謝致します。尚、貴重な多くの資料は戦火を免れる為、越原先生郷里岐阜県加茂郡東白川に疎開してあって学校の歴史を伝えているとの事です。(葵町校舎・講義)は「もえのぼる」から転載させて頂いています。
                             葵町での創立からの経過は後文で
東区葵町の思い出深き校舎(上記文) 南側です。
S20.3.19 空襲まで存在し門は子供の遊び場でした。
昭和四年秋名女並びに昭四 小集
(名古屋女子大資料アルバムより)照合
尾張時計借地テニスコートと推定。私有写真。
建物は尾張時計?(女子大資料アルバムには無い)
越原春子先生講義
「名古屋女学校」は、大正四年(1915)越原和・春子夫妻によって葵町に創立されました。
創立時の生徒数は26名でした。敷地は神土文左衛門から借地。校舎延べ85坪、半年後157坪に増築。第一回入学生の存生の方は居られませんが当時の情景は語り伝えられています。
「葵町の校舎は一反たらずの校地の一角に建った、二階建ての静かな建物でした。校地の周りは草原で、新栄町へ出るにのも、お店や銭湯へ行くのにも数町(数百メートル)は歩きました。校舎の向こうに稲荷山という小高い丘がありまして、教室や運動場から緑の木々が見えました。運動場は広いとは言えませんでしたが、周りには色とりどりの花が咲きました。生徒の数が少なかったこともあって、先生方のご熱心ぶりはいまだに忘れません。春子先生には私は和裁を教えていただきましたが、手を取らんばかりにご親切だったご教授ぶりを昨日のことの様におぼえております」
開校時、市電は覚王山〜笹島は開通していましたが、新栄町〜平田町〜片端は同年十一月開通しました。
大正九年、尾張時計が同地に工場を設置。女学校は生徒数164名に達し、大正十年(1921)本科4ヵ年定員200名への認可がありました。三月の入学試験志願者は600名を超え葵小学校を借用して試験が行われました。
尾張時計から借地拡張、1194坪(内運動場620坪・テニスコート300坪)に拡大されました。
以降、昭和十年現在の地、瑞穂区汐路町に移転するまで多くの子女が巣立っていきました。移転時、講堂は北税務署、校舎は中京実務学校・速算学校に売却されました。
私達が葵町に居住した時は、その状態だったのでした。敷地に入った記憶は有りませんが門の鉄柵に乗り足で蹴って遊んでいました。人の姿は時々見掛ける程度でした。電車道の角で葵国民学校への通学などに前を通って行きました。昭和二十年三月十九日の空襲で一帯は総て焼失しました。
尾張時計は、昭和二十四年に矢田へ移転しました。現在の「尾張精機」です。
名古屋女学校は発展拡大し、現在の「名古屋女子大・短大・高等学校」と創立の精神「親切」を掲げ、越原春子女史の高邁な精神を引き継いで前進されています。


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