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桃花祭車楽U


桃花祭の起源は確かでは無いが延慶三年(1310)の神輿の棟札があり室町時代の古図には東西車楽が描かれてという。
天正年中(1573)頃より破損甚だしく拝殿内で祭礼行事を行った。
江戸時代になり尾張藩主義直公の山車再興の声がかりで御朱印高もあり支中により運営されて来た。
屋根に乗る能人形は、毎年変わり「忠度」「羽衣」「菊慈童」「石橋」など、古面は十二有った。
大正十年頃に「桃花祭」は大きく規模拡大したようですが、これは一宮が市制を発布した事が大きな理由と思われます。
「殿町一丁目」が「下横町」から町名変更し「若殿行列奴踊り」を始めたのは、この頃ではないかと私は推測します。
現在「宝物館」に展示されている「若殿行列・奴」の衣装は緞帳のような分厚い布に刺繍が入り重厚なものです。
当時、僅か数戸の殿町二丁目に飾り馬具「神号御祓」が有るのは殿町一丁目に、それまであったものではとこれも推測します。
飾り馬の奉納も百頭近くあり夕暮れまで祭りは賑わいましたが、戦火により市の70%が焼失し「真清田神社」「東車」を始め多くの馬道具が失われました。それでも、戦後暫くは残った飾り馬道具を乗せ賑わいましたが、運送、農作業の馬が居なくなり少子高齢、平日開催の動員困難の悪条件が重なり衰退、寂しい姿になっています。
戦後、祭道具は各町内の物置等に保管していましたが、劣化が酷く、昭和三十年頃から当時の市長が一括保管の構想を持っていましたが政教分離の問題で遅れ「宝物館」完成はかなり後になりました。
真清田神社は「預かり証」を発行していますが各町では忘れられる状態です。氏子町民でありながら馬道具の存在さえ知らない人も居る状況です。
昨年から「里帰り展示」をデパートフロアで開催。広報活動が行われています。
空襲焼失後「車楽」が姿を見せた時には既に四十三年という空白の年月が過ぎていました。

東車    

室町末期の古図には有ったという車楽。
戦火により焼失したが昭和六十三年四月再興。鉄骨組上げ完成の姿で保管されている。
中断の六十年余は如何にも大きく、お囃子を知る人も無く、飾り方も覚束無しと情報を求めておられます。
正面 側面
西車    →↓

戦火は免れ倉庫に有ったが、平成十五年頃から組上げ、飾る事になった。
天井竜神幕に大正九年八月とあるので以前のもの老朽甚だしく、新造したと思われる。
中棚金襴水引幕や柱巻き飾りは大正十二年寄付とある。
下段周りの緋幕は平成十七年作。前の桃灯灯篭は新しく替えられた。
木組み 正面 側面
一宮天王町 浅野敬一 の染め抜きあり
那古野神社壇尻朝祭 (張州雑志草稿より) 部分拡大 (中央 獅子頭に猩々の赤毛あり) 内々神社御舞台(壇尻)

那古野神社の「壇尻」は、戦前は「若宮祭(六月十五日)」と那古野祭(七月十五日)」。
片端(外堀通)を西から東へ往復しました。
上図を見ると、扇獅子・稚児、そして熱田の社家が出張して古雅な神楽が奏され、素袍上下の楽人が扇で面白い拍子を取るとあります(名古屋祭・伊勢門水著より)。
「内々神社」の「壇尻」は、拝殿製作をした、立川和四郎が、天保八年作ったといわれ、神楽殿の小型のものに移動出来る車輪を付けるという特有なものです。ここの、お囃子も熱田神楽からの教授と言われます。
それらを考えると同じ尾張地域という事もあり「桃花祭車楽」の形態は共通する所が多くあり、その方向ではないかと私は思います。
からくりも、獅子が多く、高山祭では「扇獅子」が、お獅子に変わります。
私の家と、一宮・名古屋の祭との関わり

さて「一宮桃花祭」について書いて来ましたが、一宮は、私の母方の祖の地です。
祖についてはともかく、大正十年、当主であった祖母は、長男(母の兄)の、中学進学に当たり、祖母自身の考えも有ったので、思い切って夫婦子供六人そっくりで名古屋へ転居しました。
言うなれば、徳川様の「清洲越し」の家族版のようなものです。本家・貸長屋の管理を知人に委託して、名古屋市西区南外堀町(当時この辺りは西区)西区役所隣に祖父が行政書士事務所と住まいを設けました。
瀬戸電は既に明治三十八年(1905)に開通しており「堀川駅」ホームに隣接していました。市電も明治十九年から開通しており「景雲橋電停」は目の前、誠に便利な所でした。「若宮・那古野」の祭礼では「片端壇尻」が目前に出現する所です。そこに昭和十九年初めの空襲回避の為の強制疎開まで二十五年間住みました。
それで、一宮の「桃花祭」とは、その間、無縁状態でした。
代って「東照宮祭」「那古野祭」という、豪華絢爛な世界に首まで浸かっていました。
その間に、母は、上長者町三丁目に住む父と結婚しました。この地に生まれ育った父は、文字通り二つの神社の懐の中に居ました。両家は何れも太平洋戦争という未曾有の災難により運命を大きく変えられましたが、私は両親に伴われて経験した少年期の多くの体感が身に沁み込んでいます。
父の十才以上上の兄(伯父)は上前津で医院を開業していました。母の親しい従姉妹が大須で髪結いを営み、よく訪ねました。戦前の一宮の様子を私は全く知りませんが、昭和十九年の「桃花祭」に前述の「大須のハトポッポのおばさん」が、私達子供を見物に連れて来てくれた事がありました。夕方近かったと思う頃、名古屋に帰りましたが、まだ祭りは終わらず大賑わいだった記憶があります。私の戦中前の一宮の感触はそれだけです。
名古屋では、父の大学病院勤務の為、住んだ、鶴舞と、医院開業後、空襲(昭和二十年三月十九日)まで住んだ葵町から、名古屋の中心部、東山・覚王山への市電ルートが生活文化圏でした。名古屋駅・東山動植物園の開業の時期がが重なります。松坂屋から大須、広小路の賑わいは市電ルートの下町商店街も含めて活況を呈していました。
昭和十六年十二月八日の「大東亜戦争勃発」以降、しばらくの戦勝ムードから忽ち一転、四年後には焦土の街に変わるとは想像もしませんでした。最近になっても覚王山の「揚輝荘」から空襲前の遺物が現れると、如何に戦争が国の文化資産から、個人の命、生活までも滅ぼすものかを思い知らされます。
今尚、復活の叶わない、父の祖の地の祭と、現在、住んでいる母の祖の地の祭の両方への想いが重なります。
物品は、ある程度資金が調度出来れば復活可能ですが、技術や段取りなどの断絶は致命的な悲観に繋がり取り返しがつきません。それでも数百年の断絶から復活する古典芸能もありますから諦めてはいけません。
「夢は薬、諦めは毒」と言います。他所の祭見物をして羨ましがっているだけでは駄目です。
一歩ずつでも前進しなければと思います。
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