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マザックアートオフィスタワー


「葵」の「マザックアートオフィスタワー」。
ここは戦後六十年以上駐車場のままでした。中央に一本の「楠」の大木と一軒の家がありました。
ここに巨大なオフィスビルと美術館が四月末に完成しました。この地は、かって「尾張徳川家御下屋敷」の七万坪の一角です。今の新栄町から、東は車道、北は平田町近くまでの広大な土地に、池や山を配し、寺や窯場、薬草園が造られました。敷地の南西角の「マザックビル」の所には稲荷山があり一帯が森になっていました。
私たち家族は、そのすぐ東に住んでいましたが、木柵で囲われ怖い感じでした。
昭和二十年三月十九日、名古屋大空襲で一帯は焼け野原になりました。私たちが去って、その後、平地になり多くの木は無くなりましたが、一本だけ残ったのがこの「楠」です。百年以上と言われていますが、私も気になっていたこの木は、大型クレーンで現在の南西角地に移植されました。
同じ頃、工事クレーンが早朝に倒れ、歩道の自転車を壊す事故がありました。人への被害は無く大事には至りませんでしたが気に掛る事故でした。「ひがしネット」の記事を紹介しておきます。
このビルの完成により一帯の雰囲気は大きく変わり、数軒あった一戸建ちの家は全く無くなり、ビジネスと文化施設の地域になりました。
私達家族は、父の内科小児科開院の為、昭和十五年に、鶴舞の板橋町からこの地へ転居、葵町二十三番地。今は(葵十七番地)「名古屋文化女子短大」北西角に住まい、十六年二月、妹出生。十二月八日、大東亜戦争勃発。昭和十七年四月、私は葵国民学校入学。八月真夏の母の死。昭和十九年、父のフィリッピン出征。昭和二十年一月、空襲爆弾被害。三月十九日、大空襲で焼夷弾により一帯焼失、母の実家一宮へ避難転居。九月五日、父戦死(戦死公報は22年10月)という人生最大の波乱の地でした。
私の脳裏には、その出来事が、幻ではなく明瞭に記憶されています。記憶の原点、鶴舞から葵町での家族との生活体験のカルチャーショックの凝縮が私の人生のエネルギー源として、七十五年を支えて来ました。
当時の葵町に有り周囲の人々の歴史を見て来たのが、唯一この「楠」だと言えます。


北から見る 美術館・楠を西から見る。 西北から見る 向こうは新栄駅
錦通りから北を見る 北を見る
オフィスタワー・美術館・楠
名古屋文化女子短大北西角(葵17)
私達家族が五年半暮らした所
左写真の東北T字路


尾張徳川家御下屋敷図

  左下端の山が稲荷山




ヤマザキマザック
アートオフィスタワー


母の早世について、猛暑の数年前、TV気象番組で知った事を、これから夏に向かう今、参考になればと書きます。
実は、母が亡くなった昭和十七年は名古屋で気象観測が始まって以来の高温が記録され、8月1.2.3と連続39.9度が記録されました。母は、その翌4日夕方亡くなりました。私は枕元にいた誰かに末期の水をあげるように言われ口もとにあげた鮮明な記憶があります。
母は転居に続く、父の「医院開院」。四人の育児で体力消耗に加えて、体温を遥かに超える猛暑。現在のようにエアコンも無く、七月末学校が夏休みで、知人の知多長浦のお宅へ家族旅行に行き、帰ってから倒れました。
急激な体力消耗による心臓衰弱での急死でした。今では常識になった「熱中症」ですが医者の家族で「何故」という親族の父(私の記憶では心臓脚気という診断)への責めがあったと聞いていました。
母も三十才での無念の死ですが残された私達も生涯、測り知れぬ影響を受けました。
これから夏になります。無理をされないよう家族への心遣いを図り無事な日々を送られることを願います。
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