名古屋空襲
昭和二十年(1945)三月十九日の名古屋空襲。
私は、十九年十二月、三年生二学期を終え、縁故疎開先の岐阜県御嵩町の伯父の家から、正月を名古屋で迎える為、葵町の自宅に帰っていました。
正月を過ごしましたが、御嵩へは帰る気にならず、そのまま止まっていました。そして二十年一月二十五日の爆弾被害と三月十九日の被災経験をしました。葵国民学校も焼失しましたが同級生は三河の岡崎矢作へ集団疎開で行っていました。
六年生は二十日の卒業式の為、一時帰宅していた事を最近知りましたが自宅も失い散り散りになったままで葵国民学校の級友とは誰にも再会していません。
その空襲体験を述べます。


この稿は、名古屋空襲を記録する会発行の「名古屋空襲誌」を参考にしています。

名古屋への空襲は、記録によれば、第一回目は、昭和十七年四月十八日、いわゆる、ドゥリットル空襲というもので、ノースアメリカンB25一機が来襲しました。これがアメリカによる日本本土奇襲爆撃です。
被害はごく限られた範囲のものでしたが、まさか、本土が直接爆撃されるとは思ってもいなかったので、すくなからずショックを受けたようです。
本格的な空襲が始まったのは、昭和十九年十二月十三日からで、B29による三菱発動機大幸工場(現在、ナゴヤドーム)に始まり、合計六十三回を数えるに到りました。
十二月は三回で、主に三菱関係の軍需工場への爆撃でありました。

二十年に入り、一月は九回ですが、この頃から民家への空襲が始まりました。この頃は、爆弾がかなり含まれていて、飛行機の数は一機で飛んできてはバラバラと爆弾を落としてすぐ去る、という事が多かったのですが、六十、七十機と来たことも、二度程あります。
我が家に被害があったのは(1945)昭和二十年一月二十三日で、早朝五時過ぎ、警戒警報が鳴ってすぐ、いきなりドカーンという物凄い破裂音が響き亙りました。
凄い振動と風圧で、家がピリビリと揺れました。
左手前の家に、中型爆弾が命中したのです。Kさんという家でした。壁が倒れ、それに挟まれ、Kさんは亡くなりました。その数軒隣のWさんは、たまたま、手洗いに起きて手を洗っている時、屋根の瓦が飛んできて頭を直撃、即死されました。
私の友達の、T君のお父さんは、庭石が空中から背中に当り、重傷を負いました。
我が家は、ガラスが殆ど木端微塵に飛び散り、診察室の北側の庭に面した廊下のあたりはガラスの破片でジャリジャリでした。雨戸は外れて、どこかへ飛んでいってしまいました。障子は穴だらけになりました。
まだ寒い時期でしたから、一層、恐怖は倍加されました。飛行機の飛ぶ爆音は日増しに増え、弟は意味も分からず「バクオン、バクオン」と、怯えて泣くようになりました。
二月は五回ほど空襲があり、十五日に焼夷弾二万発が千種などに落されました。
三月に入って、空襲は、一機だけのものを含めて十一回で、この内、大規模なものは十二日、十九日、二十五日の三回です。この頃から、爆弾に替わって、焼夷弾が多く使われるようになりました。深夜の空襲が多くなり、おちおち寝ていられない日が多くなりました。
何時でも逃げ出すことが出来るように、一番いい服を枕許に置いて寝ていました。
毎夜、毎夜の空襲警報で、ラジオの東海軍管情報のブザーの音と、隣組の人のメガホンで叫ぶ声、その後、聞こえ始める、B29のゴーンゴーンという爆音、ドドドーンと響いてくる爆撃の地鳴り、不気味な日々の連続でした。
十二日の夜は、名古屋の中心部が空襲でしたが、葵町には、まだ被害は及びませんでした。それでも、かなり近くに火の手が上がりましたから、私達は布池町にあった東区役所の地下室に一時待避しました。
これが予行練習のようになって、来る十九日の空襲にためらわず逃げ出せたと思います。

被災日
三月十九日は、真夜中、一時四十五分に警戒警報がなりました。私達は叩き起こされました。
眠気眼を見開いて、もうろうとしながら防空頭巾を被り、一番良い、ダブルのよそ行きの服を着ました。
縁側の突き当たりにおいてあった、いい靴を捜したのですが、この日に限って見当たりませんでした。
二時、空襲警報のサイレンが鳴って、いよいよ爆音が近付いてきました。上空を探照燈が右に左に動いてB29の機体を照らし出しました。不気味に光る銀色の機体が悠然と飛んでいるのが見えました。
まもなくカードのような物が、ひらひらと上空から降ってきました。それは向かいの家の庭の木に引っ掛かって、チョロチョロと燃え始めました。隣組の人達が、叩き棒(竹の棒の先に縄を束ねて縛り付けた物)に防火槽の水を含ませて叩き消そうとしていました。空を見上げるとB29の機体から、何か大きな塊が落とされ、それが空中でバッと散らばって、バラバラっと広がると、一斉に地上めがけて落ちてくるのです。
それは、真っ直ぐ落ちてくるのでは無く、左右に振る様にしながら、探照燈の光の中を、きらきら光りながら落ちてくるのです。
向かいの家に焼夷弾が命中しました。めらめらと火の手が上がりました。これは駄目では無いかと、そんな気がしました。
続いて、周囲が昼間のように明るくなりました。照明弾だと思います。名古屋空襲誌では二十五日から照明弾が使われたとありますが、私は子供心ながら、昼間よりも明るい、写真を写す時の、マグネシュームの様な明るさでしたから、間違い無くあれは照明弾だと思います。
こんなに明るくなってしまっては、もう、とても空襲からは逃れられない、逃げなければと思いました。乳母車に弟を乗せ、叔母がそれを押し、私と兄は.それに寄り添うように掴まって、東の電車道を目指して急ぎました。
家を後に、数十メートル歩いた時、後ろで何か爆発音がしました。振り返ると、私達の家が物凄い火柱を上げていましたもう数分、逃げ出すのが遅れたら、私達は直撃弾で全滅していたかもしれません。
記録では、東区だけで、大型焼夷弾千三百二十発、小型焼夷弾一万二千五十発とあります。私の記憶では焼夷爆弾という物があると聞いたことがあります。私の家に落ちたのが、それではなかったのかと思っていますが大型焼夷弾のことかも知れません。とにかく、逃げ出した私達は、真っ直ぐ、東区役所の地下室へ逃げ込み、朝まで、じっとして夜の明けるのを待ちました。そこには、私達の他にも、大勢の人たちが逃げ込んできていました。外で何が起こっているのか分からない侭、不安と恐怖と、なにか空虚な一夜が過ぎました。
三月十九日は、まだ寒さの残る時期ですから恐怖と寒さの朝を迎えました。
空襲警報は四時五十四分まで続き、警戒警報が解除になったのは五時十二分でした。
来襲したB29は約二百三十機であったと記録されています。この日の空襲で、東区では死者三十二名、重傷九、軽傷二十八、全焼住家二千七百四十七、被災者一万九百二十二名となっています。葵学区に限っても、死者一、軽傷五、全焼家屋七百六十五、被災者三千三百名となっています。
葵学区でも、学校の東側と南側、それに新栄近辺に空襲を免れた地域がありますが、殆ど全滅したといっていい程の空襲でした。空襲誌によっても、三月十九日が被災者が最大であったと記されています。
一夜で十五万一千三百三十二人が焼け出され、家屋三万九千八百九十三が被害を受け多くの被災者が路頭に立ち尽くしました。夜が明け、地下室から朝の街に出てみると、周囲の様子は一変していました。近くの土蔵の明かり窓から、炎が盛んに吹き出していました。
呆然とした気持ちで電車道を歩き、我が家はと見れば、一面、広々とした荒涼たる焼け野原でありました。

燃え尽くしたという感じで、柱一本立っていません。あるのは唯、灰のみでした。
何か残っている物は無いかと、色々ほじくり返しましたがスプーンもフオークも、ぐにゃぐにゃで、何一つ使える物はありませんでした。
百科事典が、その形の侭、灰になって立っていました。母のミシンも焼けただれていました。竈には、前夜用意した米が炊き上がっていました。木の蓋が燃えて中に落ち込んでいました。勿論、食べられる物ではありません。何一つ残りませんでした。
上前津の伯父が、薬剤室の薬を預かるといっていましたから玄関先に出していたと思いますが、取りにこられる前に空襲で燃えてしまいました。後、叔母に聞いた話では、この薬は、母が亡くなった時の保険金で購入した物だったそうですが、母の遺産もこうして灰塵に帰してしまったのです。
周囲一体に、物凄い異臭が漂っていました。西隣のSさんのお婆さんが焼死されたのです。一度は逃げ出されたのですが、貴重品を取りに戻られて、その侭、逃げることが出来ず亡くなられたのです。近頃は、そいうことは経験しませんが、以前の火葬場と同じ匂いが立ちこめていました。人が焼け死ぬという事はこういうことなのかと、その時、始めて知りました。
炊き出しのおにぎりが配られました。かして、すぐ炊いたものですから、ばらばらしていました。中に生味噌が入っていました。大きなおにぎりでした。とにかく食べました。近所の友達のことなど、考える余裕などありませんでした。誰にも会わなかったように思います。暫くして、私達はどうしようもないので、叔母が以前から知っていた、車道の(しきせいさん)の家へ行きました。車道は葵町の隣町です。(しきせいさん)という方は、今思うと、祖母岸沢式治のお弟子さんではなかったかと思います。箱屋さんだったような気がします。一両日、厄介になったように思いますが、何時までも居る訳には行きません。私達は、先に一宮に引き揚げている、祖父を頼る以外、術も無く一宮へ向かうこととしました。
名古屋駅に向かって歩きました。新栄町を後に、広小路、納屋橋と歩きました。
 一面の焼け野原の彼方に、国鉄名古屋駅の建物が見えました。
その名古屋駅は今はありません。新しいツインタワーに代わりました。歴史は消えていきます。
再び、名古屋で暮らすことが無いとは、その時は考えてもいませんでした。
三月十九日の空襲が最大規模であったといわれますが、私達が去って後、二十五日は爆弾が多く使用され人命が多く失われました。
五月の空襲では、名古屋城が炎上しました。市民の落胆は大きなものだったでしょう。
六月は熱田の愛知時計の大惨事がありました。名古屋の空襲は六十三回あり、そのうち、大規模なものは十八回といわれ、死者は八千六百三十人と記録されています。
数字の上では東京大空襲(死者十万人)が如何に大きなものであったかは想像を超えます。
名古屋の被害家屋は十四万千六百四十六戸、空襲前の52%を失い人口は62%に減少しました。
私は、再び名古屋に住む事を希望とし、できる限りの努力をしましたが、未だ実現出来ませんが、情報から取り残されないよう心がけています。

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