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 闇(くらがり)の森八幡社と名古屋常磐津 


闇(くらがり)の森八幡社

「闇(くらがり)の森八幡社」
は名古屋市中区正木三丁目にあります。
写真のように、かなり背の高い樹が繁っています。冬でこうですから夏は葉が繁って覆い被さるようになるでしょう。
境内に歌詞が刻まれた碑があります。
「その昔 植えにし樹々の年を経て 月さえ漏れぬ くらがり乃森」という歌詞です。
尾頭橋から東に向かい堀川に架かる古渡橋を渡ると、すぐ北(左側)に木立が見えます。
古渡橋から東へ向かう道路は御器所に通じ、現在は信号もある車の往来は多い所です。
八幡社の向かいは現在伊勢山中学が有りますが、かって、この辺りは静かな所だったように思います。
社の由来を記した高札が有ります。
そこには
「闇の森八幡社」
祭神は、中央に応神天皇、左に仁徳天皇、右に神宮皇后を祭る。
棟札によれば、永正十八年(1521)鶴見道灌等が造営したとある。
この社は昔、若宮八幡とも称し、創建は古く、鎌倉時代の頃より集落の中心となっていた。
「尾張誌」によれば、創建を源為朝としており、本殿の西に為朝使用の武具を埋めたといわれる鎧塚が残っている。
           名古屋市教育委員会

とあります。
神社由来は以上です。

さて、本題「名古屋常磐津」に入ります。
資料は、南山大学文学部安田文吉教授の著書
「名古屋文化財叢書第八十号「幕末明治名古屋常磐津史」」から引用させて頂いています。
安田教授さんと私の関係は「祖母岸沢式治と常磐津」を参照して下さい。
「闇(くらがり)の森八幡社」と名古屋常磐津の関わりは享保十八年十一月下旬、社境内で起こった心中未遂事件を、当時名古屋に滞在していた豊後節の祖、宮古路豊後掾が心中浄瑠璃に仕立て上げました。
飴屋町(現中区橘二丁目あたり)にあった花村屋の遊女小さんと日置(現堀川西で中村区と中川区が接するあたり)の畳屋喜八が、ここで心中を図りました。
ここと橘は、ごく近く、花街、芝居小屋など歓楽と娯楽の地域だったようです。畳屋と遊女が、添い遂げられない事を悲観し、昼なお暗い森の中で来世で添い遂げようと事件を起こしました。忽ちの内に名古屋では大評判になりました。
豊後掾は、この新作浄瑠璃を巷の興奮覚めやらぬ、翌享保十九年正月、黄金薬師(現中区錦三丁目浄土宗円輪寺)で上演しました。外題を
「睦月連理椿(むつまじきれんりのたまつばき)」といいます。椿は下に心が付く特殊な字です。現在、円輪寺には、この事を記した高札が建っています。
この正月興業は大当たり、連日多くの観客が押し寄せました。
この様子を
「三郭細見記」という名古屋の様子を随筆で記したものが伝えています。
「その比(安田氏注 享保十九年正月)袋町黄金薬師に、此心中を連理の玉椿という浄るり、宮古路豊後掾出がたり、中村久米太郎、染五郎等子ども狂言、真最中の時しなれば、物見だけなる老若男女、弥が上へ重なり、名さへ広き広小路もせま小路になりて、東西の往来も群集にてありける・・・」

心中未遂事件のショックがまだ生々しかった事、豊後掾の官能的な語り口が心中の悲劇を増幅させ伝えられたたからでしょう。
また、この事件の、その後の経過が寛大な処置に至った事です。
通常、心中未遂事件で両人とも生き残った場合は、三日間の晒の後、非人に落とされるのですが、喜八は一日目は午前八時頃から昼少し前まで、二日目は約二時間くらい、三日目は、ほんの少しの晒の後、すぐ親元にに帰され、万事事無く済まされたといわれます。
この刑が行われたのは享保十九年二月の事で、豊後掾の浄瑠璃興業は、その以前に行われた事で余計悲愴感が盛り上がったようです。

大岡越前守が享保八年に発した
「新作浄瑠璃・歌舞伎禁止令」を破って上演したのは、時の藩主徳川宗春の開放政策によるものであることが明らかです。人々が閉ざされいた新作心中浄瑠璃に飢えていた事も確かでした。
現代でいえばモーニングショーで伝えられるようなショッキングな事件を、少ない大衆娯楽の場にドラマチックな芝居と節回しで展開し多くの人々を酔わせたと思います。
豊後掾は、この大当たりに自信を得て、同享保十九年江戸へ下り、九月に葦屋町河岸の播磨という小芝居で
「睦月連理椿」を語りました。この興業も大当たりでした。
この上で、享保二十年七月江戸中村座で上演。
「国太夫節の浄るりの文句いれての当たり」(役者福若志)、「豊後ぶしにてめずらしく、大入大当なり」(歌舞伎年代記)という成功を納め、以後、豊後節は爆発的な大流行をし、一世を風靡しました。
あまりの急速な発展と流行に幕府の禁止により元文四年豊後節は江戸からは姿を消しました。
江戸在来の浄瑠璃諸派の圧力も有ったと伝えられます。
その後、発生した新内、清元など、新しい邦楽発生の元になった豊後節の隆盛を後押しした尾張宗春公の功績は大きいと安田文吉教授は強調されます。

時を経て、幕末明治の頃、名古屋では西川鯉三郎(舞踊)、岸沢式治(常磐津)によって隆盛期を迎えましたが戦時を迎え、以後、後継者の断絶と芸能界の変化により現在の名古屋邦楽界(常磐津、長唄など)は大幅に縮小、歌舞伎や舞踊会(名古屋をどりなど)の地方(演奏者)は東京からの来演無くしては不可能な状態です。
地元に芸能人が育たない事は興業や芸修行にもコストが高く普及を妨げます。
年に僅かな歌舞伎興業も、出演者のホテル通いなどコスト高、興業主も採算が大変だろうと思う一方、観客も高い観覧料と一般受けの難しさで、興業側も「お客」の取れる歌手や、タレントの気楽な演目が多くなるのは残念な事です。
事実、師走の京都南座「顔見世」は別格として、東京では名古屋より低料金、マニア向けの三階席や一幕料金などが有り羨ましい思いがします。

「闇(くらがり)の森」という曰くありげな名称と以前から「名古屋芸能史」などで聞き及んでいた「名古屋常磐津」発生起源という場所を訪ねた想いを記しました。             
                                   平成十六年一月
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