トップへ
葵国民学校と先生
正面は東棟になるのでしょうか。 葵小学校ホームページ学校の歴史より 昭和15年には館員帰国、無人でしたから子供は庭に侵入して遊んでいました。

葵国民学校は、私の家からは150メートル程の所にありました。今も同じ所にあります。
名古屋市の中心部、栄からも1K程でしょうか。この辺りは尾張藩下屋敷跡地で、当時は隣接して、アメリカ領事館と東区役所がありました。
今は名古屋市医師会館と救急センターになりました。
私が入学したのは昭和17年4月です。ムラサキ組でした。K谷先生は、一年生の担任でした。他の先生の事は憶えていません。珍しい名前が記憶に残ったのでしょう。
上の写真は「葵小学校八十年誌」からの転載です。私は右の南棟の教室に入ったように思います。
当時の教科書の国語はカタカナから習いました。「サイタ サイタ サクラガ サイタ」とかです。校庭西には「奉安殿」という、お社のようなものが石垣の上にあり、扉を開くと中には、紫の袱紗に包まれ、巻物になった「教育勅語」が黒塗りのお盆に納められていて朝礼で校長先生が厳かに読み上げられるのでした。歴代天皇の名前も暗記しました。学校からの指示で週に二日、千種橋東の高牟神社へ歩いて早朝参拝しました。葵の校章がついた箱にカードを入れ、日本が戦争に勝つようにと願うのです。
昭和十九年、三年生、二学期学童疎開が始まり、三年生以上は集団疎開は三河岡崎矢作へ行き、私は親類の岐阜県御嵩の伯父の家へ預けられました。その間に父はフイリッピンへ出征。
お正月に葵町へ帰りましたが、そのまま帰らずにいて、一月二十九日の爆弾空襲を経験。近所は破壊され二名亡くなりました。今思うと三年生以上は疎開で「もぬけの殻」。一、二年生が避難訓練をしながら居たのでしょう。
と、いう事は私は、三年生三学期は通学日ゼロだったのです。
そして三月十九日の大空襲で家も学校も総て燃え尽きました。今回「80年誌」で翌二十日の卒業式の証書を先生が背負って運び出しましたが渡せなかった幻の卒業証書が有った事を知りました。
知り合いの車道のお宅で数日を過ごした後、思い出多い葵町を後に焼け野原を名古屋駅へ歩きました。そういう時代でした。
先生方との直接の体験の記憶は無いのですが、当時の学校の様子を知る為に、
同級生を捜したのですが誰一人手懸りは有りませんでした。’94・1・26新聞で伝えられた三年ほど上級生の同窓会を訪ね、話を伺っている内、K谷先生がどこかで健在だという事を知りました。住居は不明でした。
先生の消息が判ったのは意外な展開からでした。
私は、近くの神社境内(さくら道、裁判所前)に35才頃から、毎日7時に出かける習慣があります。
1995年の或る日、いつものように境内に行くと、そこに建っている「一宮青年の家」の玄関脇に小さな毛布のかたまりが転がっていますした。
駐車場のフェンスに布切れなどが干してあります。
境内を巡り、毛布の傍へ行くと、どうも人が包まっています。子供のようです。

傍にマウンテンバイクがあります。ムズムズと動いて、こちらを見ました。
「どこから来た」と聞くと「名古屋」と言います。
バイク旅行でもしているのかと思い「気をつけてな」と言って家へ帰りましたが、
どうも気になるので、又出かけて「名古屋のどこ」と聞くと「東区」学校は「葵小学校」。
「へー。葵小学校なら僕の行っていた学校だ」

朝飯は・・」と聞くと「まだ・」と言うので「朝飯たべさせてあげるから来ないか」と言うと付いてきました。
ご飯や味噌汁などを食べさせてやりました。
本人には気付かれないように、葵小学校に電話をした所、葵小学校へは弟が行っていて,
当人は 中学生で家出中だというのです。中学に連絡をされ、先生が名古屋から飛んできました。
所が、当人は先生の姿を見るなり、顔色を変え土足のまま外に飛び出し姿を消してしまいました。
駅へ行ったのだろうと自転車で走り回り、捜しましたが見付かりませんでした。先生は一旦帰られました。
夕方、変な事件が起こりました。
私の家の裏口の、塀の中に置いてあった、使っていない冷蔵庫が「ドーン」と小爆発、炎が立ち上りました。
5メートルほどの火柱だったので「これは危ない」と119へ・・。
火の脇をくぐり、そばの水道の水を掛けました。火柱は風呂のガスコックの傍なのでガス爆発かと思い、水は躊躇したのですが、掛け続け た所、火は消えました。
火は消えたのですが、消防車がサイレンも、けたたましく周囲に集まって来ました。
「消えました」とは言いましたが、暫くは検証があり
発火原因を調べました。
どうも冷蔵庫のフロンガスの爆発のようです。
唯、発火の原因がわかりません。自然発火は考えられないので
外から火を投げ込んだものが、冷蔵庫の上部を加熱し爆発したのではと言う事でした。
その子供は、その後、1ヶ月ほど行方不明となりましたが、大阪で浮浪者仲間と暮らし名古屋に舞い戻って公園で保護されました。
母子家庭で、同棲した母親の男連れに反発して家出をしたと知らせがありました。
不審火については伝えませんでした。もし、彼の仕業だとすれば立場を一層悪くするので敢えて迷宮入りとしました。
その時、葵小学校にK谷先生の事を尋ねてみました。
先生は、戦後、すぐ学校を替わられ、その後は、消息不明といわれました。

それから数週間後、先生の所在が判ったと連絡がありました。
先生は、名古屋市東区徳川町にお住まいと判りました。
先生は私には記憶は無いが、話をしたいと言われるのでお訪ねしました。

先生は一、二年生を続けて担任されたのだそうです。
私は、三年生の夏には学童疎開で岐阜県御嵩へ、同級生は三河岡崎に集団疎開し、
三年生三学期の空襲で葵町を去ったので、実際に葵国民学校に居たのは、二年ちょっとでしたが学校周辺の様子はよく憶えています。
K先生の、お家は徳川町の近くで陶磁器の絵付けの工房を営まれていたのですが、一時、空襲を避けて三重県に疎開されたと伺いました。
戦後、今の地に帰り、旭ヶ丘小学校の教壇に復帰。定年まで教員を勤められました。
その間、結婚された、
ご主人はフイリッピンミンダナオ 島で戦死。
お子さんが無かったので、生涯、お一人で今まで暮らして来られました。
墓参団にも二度、参加、その時、持ち帰られた水牛の
置物を私は頂きました。
私の父と同じ島で亡くなられたのも何かの縁かと、思いを新たにしました。

今も地区のカルチュアー講座で書道や卓球を楽しんでおいでです。
ワンルームマンションのオーナーでもあり、金銭に不自由は無いのだけ
れども
「自分が死んだら後はどうなるのだろう」
と、考えた事もあったけれども、お寺の和尚さんに話したら
「死んだ後の事は、幾ら考え ておいても、どうなるものか判らんのだから考えなくても良い」
と言われそう割り切ったと話されました。
50年も経ってからお目に罹った先生です。顔も全く憶えていなかった名前だけの記憶の先生ですが、学業の始まりにお世話になった事は 間違い無く、私の短い学歴の中の恩師です
 記 ’01.1.13

その後、数度、電話でお話しましたが、その後はお会いしていません。 ’06・3・30

今回「風は東から第29号」掲載のアメリカ領事館の写真を拝見したく葵小学校を訪問、「80年誌」を数ページコピーしたものを頂いてきました。多少記憶違いもありますが裏付けできました。葵国民学校の東の道の角には「地球堂」という文具・駄菓子屋さんがありました。まだ数年前まで有りましたがビル化で無くなりました。学校の西門は正門で東区役所とアメリカ領事館の間に電車道から直接入って行きました。通路北側に小さな池と噴水が有ったと思いますがどうだったのでしょうか。
疎開していた御嵩の伯父の家を訪ねたのは戦後十三年も過ぎてからでした。父の戦死で訪ねる機会を無くし二十三才になって訪ねたときには伯父は亡くなっていて大きく様子は変わっていました。
葵国民学校の生徒の消息を尋ねましたが学籍簿は焼失し調査不能でした。     ’06.4.6



トップへ