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東海道 笠寺周辺を歩く
東海道 笠寺一里塚 黒瀬さん(右)と
’99,11,28
柴田さん達と、笠寺観音、富部神社周辺を歩きました。
私の守備範囲は、幼時、育った旧東区葵町を中心として、中区、千種区、昭和区鶴舞近辺なので、それ以外の区域は殆ど知らないに等しいのです。
それで南区の事はさっぱりわかりません。興味もありませんでした。
東区、中区は裏道まで知っています。そういう地域音痴な人です。

それで、初めて訪ねるところは充分な予備知識が無く、ぶっつけ本番、思わぬハプニング(収穫)があります。存在、由来も知らなかった富部神社の、今は動かない享保十二年(1727)作。市文化財「高砂山車」形は「だんじり」を拝見できました。
享保といえば宗春、吉宗の時代です。「うん、矢張り」納得できます。
形の整った実際の姿とは、かけ離れた、みすぼらしい姿でしたが、山車蔵の前の「親鸞上人お手植えの銀杏の子木」の所で、お世話をしておられた方の案内で、社務所で、かっての素晴らしい写真を見せて貰いました。
かって熱田で見られた、名古屋の祭の原点である大山、車楽(だんじり)を合わせた形です。三層の上に大きな松の木を配した背景に屋形を載せ、高砂(尉、姥)の人形を配した様子が見られます。
かっては、素晴らしい金刺繍の幕を張り巡らし、氏子がこぞって曳行したといいます。お囃子は大太鼓、小太鼓、鼓で神楽のほか面白い節のものがあったといいます。皮の無い胴だけの太鼓が隅に置いてありました
今は、十月十日の祭礼に山車蔵の中で二層の上に高砂人形を飾るだけになっています。お囃子も途絶えてしまったとの話でした。
次に笠寺観音(笠覆寺)を訪ね、山門の彫刻などを眺め、笠寺に伝わる、玉照姫伝説などにうなづきながら、笠松一里塚を訪ねました。もともとは一対あったものが、今は片方だけが残ったといわれます。一里塚は、こんもりと盛り上げられた小山の上に榎が大きく配してありますが、これが本来の作り方なのかと思いました。
急に木枯らしが吹き始め、この日の行程はこれにて終了となりました。

昼食は、笠寺観音前の風情のある構えの「うどん屋」で「木の葉丼」を食べましたが、安くて量が多い、少食の私には「食べきれるかな」と心配な程でした。開業昭和十一年だそうで、私と同い年です。「今度は、うどんを食べに来ますよ」と店を出ました。
帰宅後、資料の再点検をすると、観察が不十分であった事がわかります。
同じ所へ再度、訪ねる事は少ないと思いますが、再確認と、出来れば再度訪ねて地元の人とのコミニュケーションができれば、訪ねた甲斐が増幅されるでしょう。出来町祭礼には六年、西枇杷島へは二年続けて訪ねています。
二月十八日、CBC「名古屋ウイークリー」で、この辺りが紹介しされました。来年は東海道四百年に当たり「東海道ルネッサンス」という企画があるとの事で郷土の歴史と文化資料の発掘をはかり資料の収集をされているようです。
黒瀬辰夫さんレポート
11月期「富部神社から笠寺一里塚跡」11月27目 =市内唯一の榎・旧東海道を歩く=
町並み探検学会の11月例会は久し振りに名古屋市内に探検の目標を求め た。
今回は笠寺(名古屋市南区)の周辺を辿ってみることにした。平成11
年11月28日、午前10時lこ地下鉄池下駅に集合。集まったのは筆者を 含め4名(敬称略:黒瀬、柴田、関ロ、木村)である。地下鉄でどこ までいくか迷ったが、結局、桜本町まで行くことにした。地下鉄に乗ること15分 くらいで到看。そこからまず呼続公園をめざす。公園の隣に長楽寺がある ここには盲導犬のサーブの慰霊碑がある。
長楽寺ば広大な寺域を持っており、呼続公園もかつては寺域であつた。そ して、この後訪れた冨部神社もそうであった。明治10年まで長楽寺が管理し ていたというのであるから、神宮寺としての性格を持っていたのであろう。 冨部神社では例大祭(10月10日)に飾られる山車を特別に見せていた だくことができた。高砂の面は天保十二年の墨跡があり、また納められてい た箱は享保年間のものであった。冨部神杜の鳥居の横にある標柱には「郷社 式外 冨部神社」とあった。式外とは「延喜式」に載っていないと いう意味だと思うが、このような表示をした例を他に知らない。あるいは見逃して いたか。ここで関口さんが一足先に帰られた。笠寺観音に向かう。柴田さんば、ここの南大門が好きだという。確かに風格のある建築物であり、彫刻も素 晴らしいと思った。
笠寺観音の前のうどん屋さんで遅い昼食をとる。その後、笠寺一里塚を見 に行く。一里塚から歩いて地下鉄の鶴里駅に向かう。途中、コーヒー タイム。木村さんはインターネットで盛んに郷土資科を発信しているようだ。
午後三時時、掃途につく。

1)呼続の地名の由来は何が。
呼続(よびつぎ)…がつては海に囲まれた松巨島とよばれる島(あるい は島にちかい半島)であり、「あゆち」の里とよぱれた。呼続の浜とよばれ るようになったのは鎌倉期以後で、「鴫海潟夕浪千鳥たちかへり友よぴつぎの浜に暗くなり」の歌がある。(新後拾遺集巻8)現在の呼続売公園あたりが 浜の中心であった。
(「愛知県地名大辞典」角川書店)

(2)神社の社格について。式外という意味は。
式内社・…延喜式神名張にのせられた神社。全国3132座の神名がある。神祇官の祭る神、すなわち官幣社と国司の祭る神すなわち国幣社に区分され、そ れぞれ大社と小社に分がれている。この神名帳にのらぬ神社は式外杜といわ れる。
神宮寺…奈良時代以後、神のため仏事を修する目的で、l神社の境内、またはその付近に建てられた寺院。神仏習合思想発達の途上に現れたもので、神 は衆生と同じく煩悩の苦から脱せんがため仏の供養を受くるを喜ばれるとい う主旨に基く。明治に至り、神仏分離が行われ、神社と関係を絶ち、なかに は廃絶するものも生じた。
(「日本史辞典j東京創元社)

柴田良成さん記
=戸部神社・富部神社「蛇毒神社」=

尾張名所図会にも紹介されている歴史ある神社。名古屋市内に残された唯一の国の重要文化財指定 の神社である。
以前、名吉屋市主催の文化財見学会で改装されるのを機会に公開した平成8年4
月27日この地を訪れ桧皮の屋根を木釘にて止めている処を見学。本殿と祭文殿、回廊、陣 内背面から発見された棟札など見学した日の事を思い出しながら壊かしく拝殿前に什んだ次第。
参道の横には山車蔵が見られる、お順いして特別に扉を開けてもらい、今では引き出されなくなった高砂車(1727年・享保12年)の2階に上がり面や装束を見た。面の裏に書かれた年代は享保。そーっと手にして自身の顔に面を被る。しぱし江戸時代ヘタイムスリップ。さらに社務所の中にある、当時の四層の豪壮なる山車をバックの記念写真を見れぱ、祭礼時の華やかさが伝わってくる様だ。慶長11年(1606)清洲城主であった家康の四男・松平忠吉が病気平癒を析願、快方になった報恩として天主領百石を与えた。本殿、拝殿、幣殿、回廊を造営され以来、歴代藩主の敬神を受ける事になった。
この地方特有の尾張造りで長く張り出した前方屋根や蟇股(かえるまた)と呼ばれる正面の飾り細工は見事なものです。
富部神社高砂山車の写真は尾張の山車祭り名古屋の山車にあります

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