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御嵩願興寺蟹薬師 祭礼

天台宗大寺山願興寺略縁起 (岐阜県可児郡御嵩町)

願興寺は、可児大寺と称し俗に蟹薬師という、美濃国御嵩町の中心にあって、巨大なる重要文化財(旧国宝)仏像廿四躯を蔵ずる東海随一の名刹である。
嵯峨天皇の弘仁六年(815)に比叡山開祖伝教大師(最澄)が広済広極のために旅人に便して、布施屋(宮桟作りの堂)を建てて薬師如来の本尊として祀って教化の一端とせられたのに始まり、一条天皇の長徳二年(996)に尼ケ池から蟹に乗って出現せられた薬師仏を胎内に納められてから、蟹薬師と俗称するようになり、また、勅願所となった。
各々、丈六の雄偉な毘沙門天等の四王を始め、日光月光、十二神将、幽雅典麗な阿弥陀如来の立像及び坐像、定朝の代表作として日本彫刻史上に重規せられる。
釈迦
三尊は昭和三十年四月落成の霊宝殿(平安朝式)に奉安せられている。また、仏像は平安、藤原鎌倉時代の作である。開帳仏である本尊以外は常時拝観が出来る。
附近には鬼岩温泉の勝景もあり、交通は名鉄広見線御嵩駅終着徒歩一分。また、美濃太田、土岐津からはバスの便がある。
毎年四月第一日曜日の大祭は長保元年(999)の創始で、天文九年(1540)再興以来継続の古式の大山、山車(車楽)が出て、無形文化財として重要な祭儀である。
蟹薬師祭礼。千年の歴史があるという、この行事の様子は写真でご覧下さい。
不思議な雰囲気があります。こういう行事は初めて見ました。
「蝿追い」は面を被っています。動作がコミカルで笑いがありますが奇異な感じがします。
行事の中ではスターです。
お囃子は太鼓と笛一本の単調なメロデイが長々と奏でられます。烏帽子姿の少年が山車の上で手をかざしながら、身体を上下して調子を合わせます。室町時代の、のどかな行事が繰り広げられました。大山は、かなりの高さがあり、建設業者に作ってもらうという事です。
山車も木枠と幕と人形の素朴なものです。きらびやかな飾りはありません。山車の原点を思わせるものでした。

境内は、沢山の屋台店が並び、賑やかでしたが、往復の電車は一両に数人の人が乗っているだけで、祭りの気配は全くありませんでした。
この日は犬山と岩倉でも山車祭りがあり、わざわざ御嵩まで行く人は、写真か祭りマニアなのでしょう。

かって多く見られた大山は、この他には垂井の南宮大社の二個所があるのみだと聞いています。
御嵩には若宮八幡社の祭りが秋にあり、こちらは祭囃子がある豊年祭りだということでした。
若宮八幡社には曾祖父が寄進した大鳥居があり、私達子孫の誇りです。

祖の地の貴重な祭りを見た今回は、心に止まるものでした。

犬山経由、広見線終点、御嵩駅 中山道みたけ館前に建つ道標。新しいものです 祭りを知らせるポスター
中山道 御嵩宿、本陣、野呂家 中山道沿い。面影を止める町並み 願興寺境内に建つ大山。かなりの高さがある
今では貴重な存在。大山 山車の上。牛若丸と弁慶が欄干の上 重要文化財 願興寺本堂
太い梁と広い回廊の大伽藍 祭りが始まる。柳川喜郎町長さんも行列に 祭りの稚児は肩車で。古式の祭礼の姿を見る
烏帽子の囃子方。獅子の舞の衆が続く 祭りの主役。「蝿追い」の登場。杵(きね)を肩に三歩ずつ本堂に向かって進む 「蝿追い」の動きに合わせ太鼓を打つ
本堂前に着くと杵を差し上げ
キャーと奇声をあげる
しきみ(はなの木の枝葉)で参拝者を叩いて
まわり厄払い
白面、白眉の奇異な姿。
獅子の舞。しきみで叩く。獅子の中は二人。
裾布を八人が持っている
トグロを巻くように丸くする。 寝そべる獅子を、からかうように、しきみで叩き、尻尾が動くのを見て飛び退き、のけぞってキャーと奇声を発する
獅子の周囲を飛び跳ねながら、しきみでピシャピシャ叩きまくります 獅子が立ち上がり、頭をのけぞり、振り下ろすのを、「蝿追い」は手の平で受けキャーと奇声を発し、首を2.3度振ります。 獅子の舞は終わり、獅子と「蝿追い」は引き揚げます。
山車が本堂前迄、引き出されます 車輪を梃子で調整します 笛と太鼓ののんびりとしたお囃子がしばらく続き、その後、山車は元の場所に戻ります
大山の上。棒人形について大きな竜が
二回りします。
神主が最上部へ昇って行きます 扉が開き紅白の丸が回転します。
日月でしょうか
大山と山車。山車は簡単な木組みと幕で組まれています。山車の原点の姿です。 祭りの終り。餅など、お供えが
参拝の人に投げられます
総てが終わり、だんだん人が引いて行く。
御嵩は祖父の出身地

岐阜県可児郡御嵩町は父方の祖父が生まれ育った地です。
祖父は三十代に名古屋へ出ました。父は名古屋生まれです。
私は昭和十九年夏、八才の時、年末まで、縁故疎開で伯父一家がいた御嵩の家に預けられました。ですから、御嵩の町は知っていました。当時、伯父の家は中山道沿いの本陣、野呂家の近く、帳場や土間のある、奥深い大きな家だったと思いますが、今は家族が、すべて名古屋など都市に転出してしまったので、留守の家と、多くの墓碑が彼岸に訪ねる親族を待っている状態になっています。
御嵩は、このところ、産廃で変に知られる事になりましたが、もともと、中山道の宿場町で、木曽川に繋がる美濃太田宿への資材と文化の流通地点でした。
私が居た時、劇場もあり、名古屋で見た映画をそこで見た記憶があります。
戦後、長い間、訪ねることもありませんでしたが、一人で住んでいた伯母が八十八才で亡くなる前、数度訪ねました。

最近になって御嵩駅のすぐ前の願興寺蟹薬師の祭礼が、数少ない大山を残す貴重な行事だということを知り、この四月、訪ねました。
今迄は、車で、犬山、美濃太田経由で一時間半ほどで行っていましたが、今回は名鉄電車で行きました。
一宮からは岩倉までバスがありますが、面倒なので名古屋回りで電車で行きました。名古屋からは御嵩行急行が30分に一本出ます。犬山までは急行ですが、その先は広見線になり、各駅停車になります。明智で八百津線と分岐、御嵩が終点です。
伯父の言い伝えでは、何代か前にに町長を務めた先祖が路線を誘致したと聞きましたが、真偽のほどは分かりません。
今度、電車で行って、わかったことは犬山から10区も有ったということです。八才の時、兄と共に父に連れられて、山霧の霞む町並みを伯父の家に行った時、名古屋から、こんなに遠かったのかと思い直しました。
名古屋の真ん中から、見も知らぬ、家族の交流もなかったこの地へ預けられましたが、伯父の家族に馴染めず、半年そこそこで空襲の危険が深まる名古屋へ舞い戻る事になりました。
当時は、電車も今より遅かったと思うし、乗り換えがありました。今は犬山から逆方向に走り出します。ちょっと驚きました。
八百津線は、来年廃線になります。八百津はユダヤ人を救った杉原千畝さんの出身地です。
ここにも古い山車が数輌あるようですが、まだ訪ねていません。

御嵩の駅のすぐ前に願興寺はあります。その前は中山道で数軒向こうに御嵩宿の本陣野呂家があります。
その手前に、町役場がありましたが役場は山裾に新築されて、その後が、中山道みたけ館になりました。
中山道の浮世絵や資料が紹介されています。

御嵩町HPには中山道の解説。木曽街道六十九次のうち、美濃十六宿(広重、英泉)の浮世絵などが数多く紹介されています。

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