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 復元された 二葉御殿 



建物の復元が話題になっていますが、建物自体は川上貞奴・福沢桃介の活動拠点として象徴的に建てられたもので、本来は中部地区での事業活動のアピールの場としての社交場に使われたと思います。
創建時の敷地面積約三千坪の中央に建物を配置し、庭園にはサーチライトを煌々と照らし「御殿」と謳われたのも頷けます。
昭和初期の大不況に向かいつつある時期に当地に活況を齎した功績は大きなものが有ります。
何といっても産業の元である「電力」を供給する手段を木曽川の急峻な流れに着眼。
資金調達を外資に求め成功させました。福沢諭吉の娘婿という立場ではありましたが福沢山脈と言われる経済界には頼らず(反対もあったとか)独力で事業を開拓した手腕は危ういと言われながらも称えるべきでしょう。
巨大な電力供給が無かったなら現在の中部地方の産業発達は無かったかも知れません。
電量供給の成功で鉄鋼、自動車、製陶(セラミック)、そして人材育成の為の文教施策が発達しました。
貞奴、桃介共に生い立ちは名も無い所からの出発でした。
ベンチャーの最たるものでした。
成功の後はあっさり身を引き熱海の別荘で余生を送ったというのも潔いではありませんか。
貞奴は東京名古屋を往来、演劇や紡績経営などの活動を続け岐阜県各務ヶ原鵜沼に自らの菩提寺貞照寺を建立。昭和二十一年七十六才で亡くなりました。
二葉館には書簡が展示されています。それには空襲が激しいと書かれていますが、昭和二十年当時は名古屋に暮らしていたのかと思います。


西南入り口アプローチから 東南から 南側 洋館玄関
 玄関 やはり着物姿がふさわしい 円形ソファーが有るコーナー 楓夫人と言われた貞奴を表す飾り瓦
西側 ここには創建時の瓦が使われている 北西側 和館
和館 北側  和瓦飾りも楓 東側二階和室 居間 仏間 土蔵に続く
敷地東側 土蔵 ステンドグラス 二階への曲がり階段
階段上下の銅製灯り(創製) 階段の絨毯止金具(創製) 和室の屏風 創建時風景(某個人所有)
屏風画 拡大 創建時配置図 約98.640平方M
(約3.000坪)
左 増改築後 約1.580平方m(約480坪)
右 復元    約2.490平方m(約700坪)
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