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桃花祭若殿行列復活へ

三日は桃花祭本祭。
神輿が真清田神社から約1.5Kのお旅所へ渡御。
再び神社へ還御される往復の行列が正午を挟んで行われます。
還御の行列の後に、飾り馬の奉納があり、その最後尾の収めに私の町の「若殿行列」があり神社拝殿に到着と共に太鼓が鳴り、祭りは終わります。
子供が少なくなり、ますます寂しくなりますが、せめて少しでも祭りらしさを取り戻す為の工夫が必要です。
年行司は、毎年交代するので氏子総代なり町会長がアドバイスをしなければ行事は進行しません。
今年は、三月三十一日が日曜日だったので準備に入り、本祭まで毎日雑用に関わっています。
何かと小忙しいのですが、こういうイベントは嫌いではないので自分の活性化の為にも動いています。明日は八時から車の手配。馬の飾り付け。衣装の着付け。
午後一時からの神輿渡御の露払いに紋付裃で参加します。
後片付けが終わるのは夕方遅くになるでしょう。祭りは・・。

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祭りは、忙しいが面白い

私の町は名前が示す殿様の町です。
一宮市真清田神社の「桃花祭」では戦中、昭和二十年頃まで「若殿行列」を伝統的に行ってきました。戦後は、それが行われなくなり五十年間中断されていました。
それが平成三,四年の二年地元青年会儀所の協力で原型に近い形で復活しました。
その経過は簡単に当ページ「桃花祭」に紹介してあります。
が、それもその二年で再び中断しました。
それから10年、再び簡略化された姿で寂しく参加してきました。
今年は、その当時、調達した衣装も揃っている事だし、費用の心配も無い。
ただ人手がありません。総てを行うには、子供を含めて50人位必要です。
現状は、少子化が進み町内には小学生が一人という有様です。
年行司が法被を着て、飾り立てた「貼りボテ」の馬をトラックの荷台に乗せ10人程の子供獅子(他地区へ嫁いだ人の、いわゆる外孫を含めて)と神社へ繰り込むだけです。
若殿は、ともかく、せめて露払い(紋付裃、白扇、青竹杖に白紙短冊を付ける)警護役を年行司が務めようと考えました。
年行司は六人ですが、露払いは男性に限られます。
氏子委員というのが各町内に一人いますが、当日は神社の神輿送迎の役があり、町内には参加できません。
今年は、幸い、年行司を男性が勤めてくれるので一応六人ですが、「飾り馬」のトラック運転に一人と、高齢の方が行列が出来ない事。
一人が欠席。結局、男性三人と私(町会長)の四人が確定しました。
衣装は10人分あります。あとは、町内有志を待ちましたが、計画立ち上げが間際だったのと、10年の空白期間が大きく、そのままの体制で進めました。
初めは考えていなかった「若殿」を、何時も祭りに遊びにくる「外孫さん」の家に打診した所、「喜んでやるでしょう」という返事で、お願いする事にしました。
「若殿」衣装一式を届けておき、お任せしましたが、当日にならないと、どういう事になるのか全くわかりません。
10年前にやってあるので、私は臨機応変、対応できますが子供の気まぐれは予測できません。
実は「若殿」の他に、二人の「子供奴」が要るのです。
それぞれ「太刀持ち」「床机持ち」の役割ですが、当日、その場で「ぶっつけ本番」でやってやろうと密かに考えていました。
当日、十一時半頃「神輿行列」が来ます。
十時半頃になって、やっと「若殿」が着物を着る気になりました。
「刀を持たせてやる」という条件付きで納得しました。
「子供奴」の衣装を着せるチャンスを窺いました。
「若殿」は現れました。が・・・。着物の様子がおかしい。
腰の帯を、ほどいてみると「ありゃ、袴が前後ろ反対」。
どうやら行列が来た様子。先頭はともかく、神輿や宮司が現れるまでに着せなければ。
早速着せ直して、露払い、子供奴の中心に「若殿」を配して、並んで出迎える。
「やれやれ、何が起こるかわからない」
若殿が現れる前に、前日から祭り半纏を着ていた子供に、かねて用意の奴半纏を「これは良いぞ。カッコいいだろう」と、袂の長い、背中に紋入り、襟には手綱柄の襟が掛けてある独特の衣装を着せかける。
「うわー。やだ、やだ」と逃げられる。
周囲の大人どもが「やあー。カッコいいぞ。それはいいぞ」とおだて上げる。
「刀を持たせてくれれば着る」と、こちらも言うので「よしよし、持て」と、とにかく納得させる。
これで作戦は一応成功。
本来は、白の半パンツ、白足袋、雪駄なのだが、急場しのぎの苦肉の策なのでスニーカーも止む無し。
とにかく、それぞれに刀も持たせて参加させる事にしました。
正式には「若殿」は脇差。「子供奴」は脇差で、一人は「太刀持ち」、一人は「若殿」が座る「床机持ち」の役割なのです。
出迎えが終わり「神輿渡御」は、一時に帰途に付かれるので昼の食事休憩となりました。

「神輿行列」が、お旅所に入ったのを見届け「飾り馬」の車はお旅所境内に移動。
他町内の「飾り馬」や協賛団体のグループも集結。
太鼓演奏や出発前景気付けのパフォーマンスが出発時間まで行われました。
一時、稚児行列が出発。「神輿還御」が始まりました。
神社関係の流鏑馬や少年武者などの行列に続き,
奉賛団体の「JA神輿」「ばち太鼓」「ミニ山車」「一宮太鼓」が奉納されます。
古来からの「馬之塔(飾り馬)」が順序に従い町内衆によって練りながら神社に向かいます。
馬の口に扇状に綱を付け女長襦袢を着、白塗り化粧をした若者が千鳥様に練ります。
以前は数十頭の奉納が夕方までかかって奉納されましたが、今は数頭になり、少子化も加わり寂しい様相になってしまいました。
私の町内は、前述のように特別な役割を持っています。総ての行事を再現する事は不可能です。
然し、出来る事だけでもやってみる事が「呼び水」になって、町内外の人も含めて少しずつ復活する事が、今、出来る事だと思います。そうしないと完全に消滅してしまいます。
さて、それぞれの奉納団体が出発し、収め役の「若殿行列と押さえ馬」が祭りを〆括ります。
きっちりやろうと思えば「奴踊り、挟み箱、槍持ち」などの「奴連」と「露払い」に続き「供侍(大小刀差)」を両脇に従え「子供奴(太刀持ち、床机持ち)」を伴った「若殿」が小脇差を差し、中央を堂々と闊歩します。
行列が止まると床机に座ります。かなり立派な行列です。
今回はそれには、とても及びませんが、「とにかく、やってみよう」と実行しました。
子供の要求を聞き「若殿(紋付裃)」「奴(特殊半纏)」共、刀(脇差)を差し、今にもチャンバラを始める勢いで行進?してくれました。

十年前、復活した時は「青年会議所」との合同行事という事と、殆どオリジナルを含めた体制で始めたので五十人以上の配列も、それなりに整えました。
今回は「殿町一」単独で部分復活が可能な事を実行し、まず、姿を見せる事を主眼にしました。
最低限、「露払い(紋付裃)」が行列の先導を勤める事から考えました。
「若殿」「奴」も実現出来たのは上出来だったと自負しています。
お旅所を出発し、1500メートルの道中は注目してくれる人も多く「若殿」にも友達から声がかかり、かなり良い気分になったようで「喜んでましたよ」と報告がありました。
町内の人からも「ご祝儀」が若殿、奴に届けられました。
「露払い」の町内若手も思いがけないカッコいい姿になれて良い気分になれたようです。
少人数ではありましたが、これが「呼び水」になって、来年以降は、町内外からも参加を得て、拡大出来ればと思います。
「奴踊り」を再現する事が、まず必要です。これが出来れば一応形が完成します。
6日夕から「慰労会」を開催。
大いに士気上がり来期以降の発展を期待し手〆を以って打ち上げとしました。
バンザイ、バンザイ

後日、十年来、以前の祭りの状態を保とうと、平日にも拘らず「日曜開催を」とメッセージをアピールして参加してきた「神明津連」が警察に行動を阻止された事に我慢出来ず、来年以降は不参加と声明を出しました。
神社、行政に祭りへの本心を確かめる為の行動だと「連」の知人から訴えられました。
尤もだと共感しますが、もう、そういう事を言う段階は過ぎて、それぞれの考えで行動すれば良いので、相手方に何を言っても埒があかないので「わが町」「わがグループ」が独自に行動すれば良いと思います。
祭りが活発な地域は、神事など宗教行事とか時代に合わなくなった伝統を超越して「祭り」を自己表現の場として活動しています。ですから、地元民だけに、こだらず地域を超越したり、里帰りや隣接地域からの参加を容認しています。
それによって「お囃子」なども若い力強さが加わり、レベルアップしています。
神社側も、口出ししないし、氏子も自己判断で行動します。
極端な事をしない限り、それぞれが自己責任に基づく判断に、干渉しない状況になってしまいました。
政教分離が、こういう形を作ってしまったのでしょう。