既に書いていますが、私の母一家は大正九年に名古屋市西区(当時)南外堀町一丁目に一宮から転居しました。母が七才の時です。それから昭和十九年、空襲を避ける為の強制疎開による立ち退きまで住みました。
母は二十二才の時に長者町の父に嫁ぐまで暮らし、その後も頻繁に訪ねました。私も一緒に行き、近い「円頓寺」へも良く行きました。その家は「瀬戸電堀川駅」のホームが隣接し、私は行くと堀川沿いの道路から回っていって出札口の柵に足を掛け、人の往来や荷物の積み下ろしを飽きずに眺め続けていました。堀川には港があり頻繁に艀が名古屋港へ往来していました。
六月十四日、愛知県図書館で開催中の「平和祈念展(語り継ごう戦争体験の記憶)」に行きました。
戦争前夜から戦争・終戦に至る経過の展示です。昭和初期の不況から、大陸進出、軍部の台頭、中国との戦争、アジア・太平洋での戦争、戦況の悪化、終戦に至る国内外の経過の展示です。ビデオや体験談(ヘッドフォンによる)がありますが、コンパクトに纏めてありました。私は「戦争展」は欠かさず行っています。
「愛知県図書館」は名古屋城郭内にあり外堀通から旧御園御門への御園橋を渡って行きます。御園橋からは今は廃線になった瀬戸電の堀川駅の跡が望めます。
「愛知県図書館」には地域関連のコーナーがありそこも訪ねました。展示コーナーでは、たまたま「瀬戸電関連の展示」があり閲覧してきました。新しい発見がありました。
名古屋市の昭和四・八年の住宅図を所有していますが、御園橋から西に、御園派出所、西区役所があり、そこから西へ50メートル程の間に十一戸の家が並んでいます。現状では考えられない密集ですが現在の外堀通は拡張していると思われ歩道の部分まで建物が有ったと思います。外堀通りは市電が複線で走っていましたが「景雲橋電停」がすぐ前にあり家からは数歩で乗れたと思います。南には映画館がありました。
堀川駅は瀬戸線沿線からの大勢の人が往来し円頓寺の娯楽街は大変な賑わいでした。
お堀の中に動物園や遊園地などがあり、行ったような記憶がありましたが確認していませんでした。母が少女時代、妹と日傘を差して茶店のような所で写した写真があります。そこがそうだと思います。
「瀬戸線の90年(郷土出版社)」にそれらの写真が有りました。堀川駅や港の写真は見ていましたが娯楽施設「娯楽園」の写真は初めて見ました。住宅図では景雲橋から土居下まで家屋が並んでいますが今は皆無です。大津橋(大津町駅)には階段が残っています。本町橋近辺では、近年この時期には「ヒメ蛍」が発生し話題になっています。現在、名古屋城郭を伏見通が外堀通を横切り新御園橋から幅下へ貫いています。かってここで開局したJOCKは東桜の現在地へ移転、記念モニュメントが丸の内中学校門前に有ります。昭和二十五年、まだ名古屋城は焼失で無いときCKに立ち寄った事があります。
祖母が放送開始記念に、常磐津「恵方乗合船」の演奏に出演したと「幕末明治名古屋常磐津史」記載があります。
戦後、都市計画とはいえ史跡地の石垣ををぶち抜いて城郭を分断したものだと唖然とする風景です。
「本丸御殿」再建がスタートしたようですが、東照宮祭など失われた地域文化の復興が望まれます。
写真の一部「瀬戸線の90年(郷土出版社)」より |