M衛生軍曹からの手紙
六十三年八月十二日 原文のまま
拝復 お便り有難う御座居ました。お元気の由、何より結構に存じます。
さて、何から書けばよいのか迷っております。四十数年前のことについては事実と異なることもあるやも知れませんが、いろいろと思いだすままに書きますので貴兄の方で整理して御推察下さい。
吾が部隊は他部隊に比し戦死者が少ない点について。
吾が部隊は歩兵連隊と違って,飛行機が発着する飛行場の警備,並びに飛行機の整備、燃料の補給、弾薬の積み込み等、全く飛行機を中心にして設立された部隊であって、最初から戦闘をする事を中心として考えられた部隊ではない。
これが為、其の主たる作業を実施するためには自動車が必要であり、自動車があれば,それに付帯するいろいろな作業が伴う。
其れ等にかかわる一切の事から割り出された将兵であって,飛行機や自動車の修理が出来、又自動車の運転が出来なければ何にもならない。だから将兵には技術者が多かった。歩兵と違って,兵に比し、下士官が多く高齢者の召集兵が多かった。小生も自動車本隊から転属して来た衛生下士官で勿論、自動車の運転は出来る。
部隊は、本部、警備中隊.補給中隊の三個中隊であり、補給中隊は飛行機発着関係、自動車による物資輸送が主体のため歩兵のような兵器は持たなかった。警備中隊は飛行場の警備に当たり、敵が来ればこれを撃退させる気力と魂と武器を備えており,其の中隊の兵の多くは関東軍から来た歩兵が主力であったので、敵が上陸して来てからも、切り込み夜襲等,勇敢に戦ったが,補給中隊は飛行機が来なければする仕事はない。自動車も、敵飛行機の銃撃により破壊され、人力による資材の輸送に従事しなければならない。
普通に考えると、何をそんなに資材があると考えられますが、防空壕を掘る器械、陣地を守り、切り込み夜襲等をやっている兵が陣地を破壊された場合の転進に際し、休める場所を作っておくとか,少し残っている食料の運搬とか、補給中隊、本部等が露営する場所への資材運搬等、兵が、隊をなした生活するには、或程度,同一場所でなければなければいけないし、毎日毎日、転進する訳ではないので、一度使った資材が時には何回も使われる場合もあります。物資の補給は無く、転進転進に兵は疲労困憊し、飢えと共に、マラリア、アメーバー赤痢の伝染病で次々に倒れていった。戦記に書いてある通りです.
小生は,内地出港の時,大隊長が,私も東満の部隊から只一人で転属。君もハイラル自動車隊から一人で転属、どうだ僕と運命を共にしてくれないか、君の命を僕に呉れ、との事で二,三の条件を申し出て部隊長と運命を共にする事になりました。
その為,部隊長と軍司令官との伝令を努めたり,時には他の将校への伝令,宣撫工作に対する原住民の反暦等の調査,部隊長には秘書がいましたが,私は衛生下士官として兵の健康状態,看護,軍医の元への患者移送の指示等をやっていました。
陣地にいると,頭が痛いとか、腹が痛いとか言って後方へ下がる下がると、ずるい考えをもった者が多く、後方にさがると、これでは戦は出来なくなるではないかと、部隊長に怒られ、浮き足立った者がいると戦い難いと、私も歩哨に何回も立ち、衛生部員が斥候にも出たのです。
戦友会に出席しても、われわれ衛生部員は,他の兵からとやかく言われるような事はない。戦う意欲の無い兵の面倒を見てきたのです。20年7月末日頃までは部隊長と行動を共にしてきたのですが,部隊長が、君をこのまま側におくには余りに気の毒.御陰で体も持ち返してきたので、これから軍医のところへ行く、君は本部のH小隊についていて呉れ、とのことで山で別れ、終戦後、収容所の金網越しに再会し、友軍同志で殺された人、殺した人をどうするか、内地に帰ってからの口裏をそろえて、死んだものは戦死、殺された人も勿論それで通すこととした。
貴兄の父、軍医殿の死については、H衛生兵の私へ報告の通りと信じます。筏は川の中州に頭を乗り上げたので、H君は中州に上がったのですが、激突の衝撃で軍医殿、足を踏み外し.川に転落、向こう岸に泳ぎつき岸の竹を握ったが,土手が水でゆるんでいる為,根がぼそぼそと長く、土から離れ遂に根が折れて,助けを呼びつつ、浮きつ沈みつして行かれた。米軍の渡船場も、そう離れていなかったので、米軍が縄を投げたが、それを掴む気力はなく流れて行かれた。
これは、一つ気がかりな事はあります。米軍上陸と共に、一部の兵は、ただちに飛行場を離れて転進、その時、Eという准尉が、軍医に注射を射って呉れとの事だったらしい。小さな出来物で、兵隊なら軍医に口も聞けないでしょうが,准尉だから見習士官の軍医より階級が上だものだから、小さいものに右の大腿に筋肉注射をされたのです。ところが注射器の消毒が不完全であったのでしょう。
右大腿は化膿し、遂に歩行困難、歩行不能となった。軍医を呪う事それはそれは、我々まで当たり散らし、その怨念は一般兵も驚く程でした。四月から八月終戦の時迄、その怨念は続き、自分が苦しいものだから兵に当たり散らし、兵も聞かなくなり,遂に山を降りる日、その准尉は、担架に乗せられたまま谷底へ捨てられてしまった。「助けてー」 叫んでゆく声が、余韻を引いたとか、丁度同一時刻頃,軍医の筏が中州に乗り上げ、軍医殿だけがプランギ河の水漬く屍となってしまわれた。
これは、E氏の怨念によるものではなかろうかと、靖国神社にお参りする度に、仲良くなって下さい。消毒されていなかったか、消毒されていたが注射した時の何かのミスか、互いにそれが運命であったのでしょう。どうぞ仲良くなって下さいと、関係の人も、多くは、お二人の所へ来ていることでしょう。
此事については誰にも話しておりません。私は、近頃霊写することがあります。霊魂は不滅です。お父上のお供養をなされる時は,父上と同じ日に亡くなられたE様も、同時お供養下さい。
貴兄も落ち着かれる事でしょう。何を書いたか、只ペンの走るままに乱筆で御免,こんな事は拝眉の折にしましょう。書くことは長時間を要し、控えもないので、年をとると自分が書いた事も忘れる事が多い。
私は、戦友会の後の旅行には一度も参加しておりません。いろいろな事を考える,見る物が目に這入りません。
八月十三日 今日はこれまで
敬具
M衛生軍曹
追伸
八月十日,S衛生伍長、夫妻の墓参りをしました
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