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よみがえる二葉御殿
復元される創建当時(大正九年)の二葉御殿 解体前の二葉御殿
二葉御殿

「二葉御殿」というのは、大正九年、名古屋市東区東二葉町の地名を取って付けられた和洋折衷のモダンな近代建築です。設計は「あめりか屋」となっています。
建築者の「福沢桃介」は、長野県に発する木曽川の水利を利用して水力発電所(大井)を建設、その後も電源開発事業を発展。中部地方に大電力を供給しました。、電力王と言われた福沢桃介が活動拠点を名古屋に構え多くの要人との交流の場として建設されました。
共に社交界で活躍したのが「川上貞奴」です。
二葉御殿は昭和十三年福沢が没して後、貞奴の手で大幅な改造が行われ、創建時とは様子が変わりました。私が数年前、眺めた時の姿と、今度復元される創建時の完成図とは違います。
解体時の場所からは移転し撞木町に移ります。
解体暫く前までは桃介の電源開発当時から大きく関わりの有った企業関連の寮となっていましたが文化財として名古屋市に寄贈され解体した部材は現在、名古屋ドームに保管されています。
撞木町は立地条件により建物の向きが変わります。今までは西に門が有りましたが方角が変わります。
十一月十六日まで「名古屋市政資料館」で開催された「よみがえる二葉御殿(文化のみち企画展)」で資料展示を見てきました。
川上貞奴の肉声「小唄青柳」「端唄槍さび」がパソコンから流れていましたが、なかなかの良く通る美声です。
福沢桃介、川上貞奴のパネル紹介。二葉御殿の設計図。ステンドグラスや照明器具などの展示が有りました。不足の部材は復刻設置されます。
復元後の建物には「文化のみち」にふさわしい、当地所縁の文化人や近代建築などの資料展示が計画されています。その一端としては、名古屋近郊の作家(城山三郎、小谷剛、豊田穣など)の資料や大正昭和の近代建築資料が展示が併催されていましたがこれらの資料展示などが立案中です。
と、ここまで書いて来ましたが名古屋の地形について書きます。
案外、名古屋は平地のように見えて高低差があります。JRで名古屋に向かう車窓からは一面の平地と見えますが、栄地区を中心に南北に、かなりの高低差があります。名古屋城そのものは天守閣が高いので天守からは名古屋市内がくまなく見渡せますが、栄から歩くとお城へは下がっていきます。伊勢湾台風の時に栄交差点近くまで浸水した南方は豪雨になると瑞穂を中心によく浸水に悩まされています。
東は千種から丘陵地帯になり高くなっていきます。
名古屋城から東は旧武家屋敷跡のいわゆる「文化のみち」と言われる高級住宅地ですが、この辺りから北に急傾斜に下がり北からは自転車で上がるのはキツイ地形です。
「二葉御殿」が建っていた辺りからも下がって行き、北からは高台に見えます。そこに建つモダンな建物が御殿と言われました。
私も現地で見ましたが建物の北は階段になっていました。今度移転する所は平地部分で景観は変わると思われます。

「川上貞奴」
明治四年(1871)東京日本橋に生まれた。本名小川貞、七才の時、芳町の芸者置屋の養女となる。十五才、小奴を名乗る。十七才で披露目して”貞奴”と改名。伊藤博文に寵愛された。
明治四十四年、新派の川上音二郎と死別、その後、初恋の人福沢桃介(諭吉の養子)と交友復活。大正七年(1918)同棲。大正八年東区東二葉町に洋館を建設。五千坪(約16.500平方メートル)の敷地に百二十坪(約3.960平方メートル)の建物で双葉御殿と呼ぶ。福沢は水力事業に精励。貞奴は上飯田に絹布工場を開設。二葉御殿は、名古屋財界人のサロンとなり来客が絶えなかった。昭和十二年(1937)東京に移る。
同十三年、福沢没。同二十一年、貞奴没七十六才。

「福沢桃介」
明治元年(1868)六月二十五日、埼玉県比企郡吉見村の農業、岩崎紀一の二男として生まれた。明治十六年(1883)福沢諭吉の慶応義塾に学び、英才が認められて明治二十年(1887)一月二十九日、福沢家に入籍し、福沢の二女、房の婿養子になった。
以後、幾度かの波乱を乗り越え、鉄道・水力発電・電気製鉄・電灯・臨海工業地帯の開発など中部経済圏の発展の為、数々の業績を残した。この他、明治四十五年(1912)五月には、千葉県郡部選出の代議士となり、大正三年(1914)十二月まで政治に関与し活躍した。
大正十三年(1924)には、日本最大の大井ダムを建設したのを始め、七つの発電所を次々に完成した。大井発電所の礎石には「独立自尊」と福沢諭吉の言葉が刻まれている。「電力王」と言われた桃介は、昭和三年(1928)六月、関連会社四十数社の要職から手を引き、熱海で悠々自適の生活をした。昭和十三年(1938)二月十五日、死去した。七十才。

と「東区の歴史(愛知県郷土資料刊行会)」には著わされています。

南木曾には福沢桃介記念館がありますが「大井ダム」建設時、島崎藤村の兄を始めとする、現地住民が自然環境の変革に反対し私財を投げ打って大きな運動を起こしました。堰き止められた木曽川は枯渇し木材運搬の筏師は生活の変化を余儀なくされました。未曾有の大事業の資金調達の為、アメリカで債券を発行し事業を完成させました。桃介、貞奴がサイドカーで現地の視察に現われた姿は日本人とは思えない姿であったと古老が語ります。
二人には数々のエピソードがあります。桃介は華奢な美男で目立ちたがり屋なところがあり慶応の学園祭での粋な姿に、房が惚れた上、諭吉からの援助も有り養子になりました。孫に当たる人の話では東京の屋敷では房とは別棟で暮らし、さほど仲良くは無かったと語っています。
鬼才と言われる才能があった反面、かなり強引なインサイダーなどの錬金術で悪評もあったようです。
貞奴は、壮士芝居の川上音二郎と組み日本の女優第一号としてアメリカ公演も成功させましたが音二郎死後はあっさり手を引き桃介と中部地方の実業界で活躍しました。
非常に個性の強い人物が名古屋を中心に活躍した時代でした。
その記念すべき建築が消滅する事無く復元される事は素晴らしい事だと思います。
已む無く次々消えて行く個人住宅の中で貴重な存在として一日も早くその姿が現われる日を待ち望んでいます。

覚王山日泰寺舎利殿参道に「福沢桃介君追憶碑(昭和十五年建)」があります。
これは昭和三十四年(1959)に移築されたものです。

碑文(概略)

「福沢桃介君は天縦の鬼才にして・・、埼玉県人でありながら後半生は中部日本に関心を懐き、明治四十二年、名古屋電燈会社に関係するに始まり方針を一変。火力のみに依存していた電力供給を尾張信濃の渓谷を四萬年駄々と亜流していた河水を電力に変え数百万家庭並びに大小幾百数千の工業を供給誘起、名古屋を日本第三の都会となした。(中略)福沢君の彗眼胆気を追想してその功業を礼賛する。
下出民義君の唱道により事績を書して碑を建て記念とする。」

後面の協賛には大同電力、東邦電力、名古屋鉄道、矢作水力、大同製鋼の株式会社が名を並べています。発起人は下出民義とあります。

この参道には、その他にも記念碑があります。
福沢碑に並び「西川鯉翁碑」があります。
初代西川鯉三郎の経歴が記され高弟が名を連ねています。
私事ですが私の祖母の名取名「西川 叶」が有る事を知り驚きました。


新しい資料が発見されれば、又お知らせします。 2003.11


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