トップへ

 私の伝統文化諸考 
               私の伝統文化諸考 ’01、7、20

各地の伝統芸能や祭を考察していると「あれ・・」と思う事が多くあります。
祭の準備などを拝見していると、今では高齢の為、現役を退かれた長老の方達が話しかけてきて、古い話や、今の様子との比較などを 話されます。
その中には「嘘だー」と思える、とんでもない話が飛び出します。

それが、暫く経って「あれは本当の事かも知れないな」と思えてくる事があります。
それは、天変地異災害とか、戦後の混乱期などに起った事が多いようです。
金品、食料などに貧した時、人は冷静さを失い貴重な伝統や文化財を人手に渡してしまう事があるのです。
殊にに戦後、多くの文化財が海外にまで流出してしまったのですから国内でもそういう事態もはあったのでしょう。
祭の山車などは、地域に財力が増し、より立派な物を新調した場合、今まであった物を、祭りのシンボルとして欲しい地域に譲る事は多く ありました。
その山車などが各地に保存され、戦災を免れた事は幸いな事です。
然し、そういう事ばかりではありません。
ある地域の長老が話されるには「戦争に負けて街は焼け野原、住む家も無い、食料も手に入らない、
一家の主は戦争で亡くなり、残された家族が生きて行くのがやっと、こんな状態では祭は二度とやれないだろう。緊急事態だ。 欲しい町内があれば買って貰おう。」と買い手を探したのです。
二輌の内、一輌は空襲で山車を失った町内が買い受けました。

もう一輌は、別の町内へ声が掛かったのですが、あまりの高額に買い受けを諦め、町内の職人さんなどが何年かかってでも、元の焼失した 山車を作り上げようと決心しました。
買い手が無かった山車は、元の町内が事の重大さに目覚め、急遽、戻したと伝えられます。
これは戦争の混乱がもたらした例です。
これとは違いますが、かなり以前の事、古来の由緒有る神社の例です。
度々の水害や村の経済のの疲弊で神社の護持が困窮に貧していた時、
少し離れた裕福な地域の人達が、立派な神社を作ろうと考えていた所へ、その神社の身売り話があったといいます。
伝統ある神社が地元に出来る事は願っても無い事であり話が纏まったというのです。神社が出来れば、祭も立派にやりたいので、 他地区の山車を譲り受け、その数は、戦前は五輌になり豪華な祭も行われ、その地域はますます発展しました。
その地域の長老の話「あの山車はな、木曽川が決壊した時に、この辺りに流れ着いたのを寄せ集めて作ったんだ」と云われる。
「まさか、そんな事は」と聞いていましたが真面目な顔でした。
祭囃子も、ある町へお囃子の稽古を盗み聞きして作ったものだとか・・。

真偽の程は私には分かりませんが、それくらいの意欲は有ったほうがいいでしょう。。
こういう話は、いくらでもあります。
不敬な話かもしれませんが、その時代によって「神様」が簡単に作られた事が多くあります。
戦国時代の武将や、近代になっても軍人などを
簡単に「神様」にしました。
神仏混こうは当たり前。その時代の都合で「神道」のみが国教だと仏教弾圧もありました。

伝統芸能の発端は、仏教のお説教が原点で、難かしい話では受けないので節を付けたり、面白おかしく、或いは悲しみを強調して脚色したりして、 伝えました。
その一つは「節談説教」といわれ、それが浪花節や落語に変化したといわれます。
町角で説教をしながら「かっぽれ踊り」などをした、お坊さんもいました。

祭礼があると神社、お寺の境内では仮舞台が作られ「地芝居」「獅子芝居」などが催され、ご祝儀や、お布施で生活のなりわいとした芸人も多かったのです。
今では芸術の域にまで達した芸能もありますが、それは観客(見物衆)の要求によって違うので、それぞれお好み次第という事で良いのでしょう。
あれこれ聞いてくると、物事の発祥の原点は、まことに怪しいもので、漁師の網にかかった観音様や、大木にひっかかっていた弁天様とか・・。
学者の研究は別として
、普通の人は、あまりこだわらずに、おおらかに考えればいいのでしょう。
要は地域の人間関係と地域に合った、疫病退散、豊作祈願、欲求不満(ストレス)解消の娯楽芸能として「晴れ」の行事だと思えばいいでしょう。
その為には、ただ与えられたものだけで無く、より洗練されて近隣と競り合う気迫や知恵、能力が必要です。
大きな祭を中心に、全国各地に広がった、お囃子などは、余程の伝統ある地域以外は「コピー」が多いようです。
祇園囃子などは小さな村のの祭礼にもあります。
とにかく、本宮から広がる末社は全国各村にあるのですから当たり前なのでしょう。

それに連なる「郷土芸能」は数知れず。民謡、舞、踊りなどコピ−文化は昔からありました。
「おわら節」「伊勢音頭」などは全国にアレンジされて広がりました。
「めでためでたの若松さまよ、枝も栄えて葉も繁る」などは節を変えて色々な芸能に使われます。
最近でも、どこかで一つイベントが成功すると団体視察があり「わが町でも」とコピ−が大流行り、コピ−されても、それが地域で練り上げられ その地域に合ったように洗錬されてパワーアップされれば定着するのですが、横並びの丸写し、タイムスケジュールだけを追うようになると 飽きられ衰退して行きます。
祭でも本当に良いものは復活しても盛り上がりを見せますが時代に合わなくなったものは消滅して行きます。
体力と物資を、ただ消耗するだけの文化は見直して、本当に伝える価値の有るものを継承し、洗練して行く時が来ているのだろうと思います。


トップへ