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11.3 (祝) 文化のみち ウオークラリー START 名古屋市役所 〜 GOAL 徳川園 約 5K

なごや交流年 文化のみち フェスティバル ウオークラリーが開催されました。
9 ・30 名古屋市役所受付開始。 私は9 ・45分に行きました。長い列が出来ていました。
親子連れ、夫婦など、その他、名城大学のグループがいましたがゼミナールのようでした。
随時、それぞれがスタートして行きました。市政資料館では長蛇の列になりました。
私は、今迄に訪ねた所はチェックポイントのスタンプだけを押してもらい、次の地点へと行く事にしました。
内部の閲覧は大混雑で、普段でなければゆっくり見られません。
紹介文は頂いた資料と、所蔵の冊子、それに私の観察、感想を記します。
参考文献 名古屋区史シリ−ズ 東区の歴史
愛知県郷土資料刊行会 見やあせなごや観光100選 大野一英
レポは後文に書きます。
名古屋市役所

登録文化財。昭和 8年(1933)洋風の建物に瓦屋根。帝冠様式。
鉄骨鉄筋コンクリート耐震耐火構造地階を含む11階建。
中央搭(53メートル)の上部に二層の屋根、四注屋根先端に四方にらみの鯱を乗せる。内外の装飾は石と煉瓦の重厚なデザイン。階段廊下など石材の中には化石が見られる。

設計コンペによる平林金吾の案を採用。松山基軌の肉付けで完成した。
隣接する県庁とよく似ているので市民でも間違える人がいる。
市政資料館

旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎 。
重要文化財。大正11年(1922)

赤い煉瓦と白い花崗岩の対比が美しい。
ネオバロック様式。設計、山下敬次郎、金刺森太郎。
市の古地図、文献、写真などを所蔵。随時、公開している。
玄関を入ると正面に中央階段室。ステンドグラスが美しい。
希望があれば結婚式の記念撮影もされる。
法廷、留置場もあり、ロマンと現実の奇妙な対比を感じる。
豊田佐助邸

和館は大正12年(1923)、隣の洋館はそれ以前。
発明王、豊田佐吉を助けた、弟、佐助の邸。
白いタイルの洋館と広い総二階の和館、庭園がある。
平成 7年から市が借用し市政資料館分館として利用している
金城学院栄光館

登録文化財。昭和11年(1936)スペイン瓦に清楚な白い壁。
設計、佐藤艦、城戸武男。
内部は講堂になっている。パイプオルガンが設置され讃美歌などが歌われる。
学生のハンド ベルの演奏は素晴らしい。
名古屋陶磁器会館

昭和7年(1932) 設計、鷹栖一英
タイル壁や半円窓、軒下の装飾などが特徴の表現派建築。
陶磁器の街のシンボル。一階ギャラリーが公開。
東区は、瀬戸から白生地の陶器を取り寄せ、絵付け加工産業がが盛んになり、色々なデザインの陶磁器が多く作られました。
その中心となった建物で、会館のはしりと言われます。
建中寺

尾張徳川家の菩提寺。二代藩主、光友が慶安五年(1652)創建。
総門総けやき造り(1652)、三門総桧造り(1652)、御成門(17世紀後半)、本堂十五間四面は市内最大(1787)、鐘楼(1787)、経蔵(1828)が市文化財、霊廟(1786)が県文化財
門扉、瓦には三つ葉葵の紋が付いている。
宗春公など墓地は平和公園にある。
宗春公の建中寺参詣の華やかな行動は語り草になっている

建中寺門前町の筒井町の祭礼は今も豪華絢爛に行われる。
徳川園

江戸時代には成瀬、石河(いしこ)、渡辺など尾張藩家老の下屋敷が置かれていた。
(一時、二代光友の隠居屋敷)明治以降は尾張徳川邸となり、昭和7年(1932) に庭園が市に寄付された。
正門、脇長屋,塀は明治33年(1900)完成の旧徳川邸遺構。
蘇山荘は汎太平洋博覧会(昭和12年)の迎賓館を移築したもの。
徳川美術館は尾張徳川家の大名道具一万数千点の美術品、国宝・源氏物語絵巻をはじめ重要文化財60件を所蔵、随時、展示している。
川上貞奴邸

別称(双葉御殿)
大正9年(1920)設計あめりか屋
500坪の敷地に120坪の建物。名古屋財界人のサロンとして活用された。
日本最初の新派女優、川上貞奴が川上音二郎と死別後、電力王・福沢桃介と共に住む。
現在はナゴヤドームに解体保存されているという。

川上貞奴 明治 4年(1871)−昭和 21年(1946) 76才没
上の写真の右側から眺めたところ
屋根が傷んでシートが掛けてあります。
文化のみち
かって尾張徳川家の家老を始め、多くの武家が住んだ武家屋敷の面影を残す、歴史と文化の香りが満ちている一帯をいいます。
文化のみち ウオークラリー レポート

99,11,3 は文字どおり文化の日にふさわしい快晴のウオーキング日和でした。
「名古屋市役所庁舎」は、昭和天皇の即位御大典の記念事業で、昭和 6年、市会で建設が決まり、 8年 9月に完成しました。
隣接する、同時期に完成した愛知県庁と同じ大きさに見えます。両雄、並び立つ感じで、大都市名古屋にふさわしい建築物です。
中に入る事は勿論できます。大理石がふんだんに使われた階段まわり、照明など時代を感じる雰囲気が漂います。
昭和の始めは経済大恐慌の時ですが、よく、こんな大きな物が建てられたものだと思います。
それ以前の時期の日露戦争の勝利で日本は自信満々だったのかも知れません。
大正、昭和にかけて西欧文化が広まり、特徴のある文化財が今に伝えられました。
私の両親が育った頃です。その親(祖父、祖母)のモダンな洋装の写真が沢山あります。
いわゆる、モボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)の時代です。
さて、市役所前をAM10,00 歩き始めました。市政資料館へ向かいます。
もともと、この辺りは、名古屋城の城郭の内で、家老の中屋敷があった所、堀があり、石造りの橋が架かっています。橋には名前がありますが石造りの欄干に、東京の二重橋にあるような鈴蘭様の照明がついています。
道路が変に通っているので妙な感じもしますが一見の価値があ
ります。
「市政資料館」は、裁判所から用途が変わる時に、内外清掃されピカピカになりました。ライトアップもされ美しい姿が見られます。
搭屋のドームは、この時期の建物によく見られるもので、戦前のデパートの屋上などにも見られました。
司法の権威を表す徽章が光っています。内部は彫刻、大理石と、ステンドグラスに飾られた窓、法律の権威と、モダンという不思議な取り合わせです。今の裁判所のコンクリートとガラスの無機物的な建物より、余程、文化が感じられます。
昭和の人より明治、大正人の方が文化に対するセンスは上ではないかと思います。
大臣、学者、軍隊の制服なんて金ピカで凄いです。
能率とコストだけを考えた、画一された、この頃の建物は文字通り箱です。
味気ない建物が多いこの頃です。
ここには戦争資料もたくさんあり、名古屋城下の古地図から、戦災地図、古い時代の写真など見る事が出来ます。
ここから東へ向かうのですが、この一帯は空襲を免れ、武家屋敷風の見事な構えの家並みが続いています。

市政資料館の東に屋根神
様がある古い長屋があります。このアンテイークな風情を応用した、ギャラリー喫茶「手と手」、町屋を改装したレストラン「アンティキ」があります。実験的な試みですが商店街ではないので、普段は人通りもあまり無いので PR の方法が難しいかと思います。
しかし、人のぬくもりを感じるこういう店は貴重だと思います。
今回はイベントで、ごった返していましたから平日に再度訪ねようと思います。
「主税町カトリック教会」(礼拝堂、畳敷、明治37年(1904)、司祭館、昭和5年(1930))を見ます。
礼拝堂正面の三連アーチ、鐘楼の鐘はフランス製(100年前のもの)。
「旧豊田家の門、塀」は武家屋敷の風格の覗き窓のある見事な構え(大正7年、1918)。
残念ながら邸宅は高層マンションに変わる。
近くの
「加藤邸」昭和10年(1935)は(自習舎)として文化催事に公開。
数寄屋造りの邸宅と庭園。今回の催しは「コーヒー作法」でした。
この辺りは、明治に、いち早く洋風建築が建てられ明治大正期の建物が多く見られます。
「旅館か茂免」、明治44年(1911)洋紙商、中井巳次郎の旧邸。戦前、戦中は皇族の居所として利用されました。
「料亭「香楽」」明治34年1901.「春日邸」。大正14年(1925)洋風数寄屋普請。「大森家住宅」。大正5年(1926)。「伊藤家住宅」大正初期(1910年代)など大正時代の住宅が庭園と共に町並みを構えています。
「井元家住宅(撞木館)」大正15年(1926)陶磁器貿易商同業組合長として活躍した井元為三郎の旧邸。市民グループが借用しギャラリー喫茶やデザインオフィスとして活用しています。
珍しいのは
「春日文化集合住宅」(昭和3・7年1928.32)で道角の明治末建造の「大洋商工」(陶磁器貿易業)社屋横の路地を入ると共用広場を中央に囲むように12戸の洋風住宅が並んでいます。すでに壊れてしまった家屋、住んで居ない家もありますが静かな佇まいの一角です。
ここの一帯は、江戸時代には三百石級の中級武士の屋敷で、各戸が六百から七百坪の敷地です。
住宅地を東へ金城学院へ向かいます。東区は名古屋最初の文教地区であり、明治維新後、学制発布により寺院の敷地などに、学校が多く作られました。教員養成の為の師範学校や、キリスト系、仏教系の中学校が創設されました。今は郊外に移転したものもありますが、今尚、多くの歴史ある校舎が残っています。
「金城学院栄光館」はキリスト教の学校らしく、パイプオルガンが設置され宗教音楽、集会などが催される二階席のある講堂です。

道路を隔てたすぐ前に「シキシマパン」があります。ドイツの技術者からパン製造のノウハウを得た名古屋地区のトップメーカーです。
ここで、私はラリーコースを外れて
「川上貞奴邸宅」を捜しに行きました。道路3本北の一角に建物はありました。今は人は住んで居ないようです。大同特殊鋼双葉寮の表札が架かっています。かなり傷みが進んでいるようです。名古屋市が解体保存するとの事ですが現場からは姿を消すのでしょう。この敷地から北はいきなり急坂に下がっていますが、名古屋は案外、土地の高低があります。東京も結構坂が沢山ありますね。それも一つの風情ですが。人の住まない家は侘びしいです。息遣いが感じられない町並みは駄目です。
昼夜、人口が極端に違う街は結局は発展しないのではないでしょうか。職(商)住分離が商店街の衰退などをもたらしています。
再びコースに戻って、次は
「陶磁器会館」。東区は瀬戸、多治見への街道の集合点に当たり、交通の便も良い所から、陶器の絵付け、ガラス工芸などが武家屋敷などの広い区画を活かして発達しました。その代表と言える森村組は江戸末期からの武具、貿易商、森村市左衛門、大倉孫兵衛が陶器産業に着目、後「ノリタケチャイナ」の名で世界に輸出されるまでに成長しました。今は「日本碍子」「日本特殊陶器」などのセラミック産業に発展しました。陶磁器会館は陶磁器産業の中心をなした所で、1階ギャラリーで新旧陶磁器の展示が公開されています。
東に向かいます。途中、学校令発布以来の
「筒井小学校」(昭和11年1935)の戦前建築のアーチ窓の校舎があります。
なおも東へ、尾張徳川家菩提寺、
「建中寺」に行きます。
毎年、6月第 1金、土、日は筒井、出来町天王祭りで、この辺りは、お囃子が賑やかに鳴り響き、露天が建ち並び、山車の道行きが終日行われます。
建中寺本堂は木造では名古屋最大の建物、境内に入り周囲を見渡すと経蔵、鐘楼など年代を経た風格のあるものです。
この参道を、宗春公が白牛に乗り、長きせるを、くゆらせて参詣した様子を想像するのも一興ではあります。
建中寺の墓地は平和公園にありますが、宗春公の墓碑は周囲に重臣を配し一段と大きなものです。将軍吉宗に反抗したと永い間、金網が掛けられていたといわれます。墓碑の一角が欠けていますが空襲の時のものだと伝えられます。
建中寺を東へ、左に曲がり、最終ポイント徳川園へ。
「徳川園」は尾張藩家老の下屋敷。正門、脇長屋、塀は明治33年(1900)のものです。
「徳川美術館」は、昭和10年(1935)徳川義親氏より財団法人「徳川黎明会」に託された「大名道具」1万数千点を、近代城砦式鉄筋建築の建物に保管されました。昭和62年開館50年を記念して増改築が行われ、今の姿になりました。
国宝「源氏物語絵巻」など国宝八件、重要文化財四十八件、重要美術品四十四件などを所蔵する美術館です。
隣接する
「蓬左文庫」は重要文化財七件百五十四点を含む和漢の古典類約八万冊を所蔵しています。
この他にも名古屋の芸能、版画等の資料も多く保存されています。
文化のみちウオークラリーは徳川園をゴールに大勢の人が参加、新しい発見をされた人も多かった事と思います。
今回はイベントという事で、大勢の人が町並みに溢れましたが、日常生活も能率、コストだけに走らず個性、特徴を活かした暮らし方を考える機会になったと思います。
団地、学校、オフィスビルなど、コンクリートとガラスの単なる箱では情操も育ちません。
金と物ばかり欲しい人、金、物は多少なくても心にゆとりの欲しい人、選択は自由です。
何事も自己責任の時代、週刊誌、ワイドショー、インターネット有害情報、選択は自分です。
本当に必要で、価値のある情報を活用して自己開発に努めたいと思います。
時代。そして未来へ

近頃、建物或いは構造物の耐用年数や手抜き工事が問題になっています。
今度、訪ねた文化のみちの町並みは個人住宅については、大正末期から昭和初期に建てられた物です。
その中で一番新しい加藤邸は昭和十年築。私と同年です。加藤さんのお宅は、御自身がお住まいですが、他の建物は用途変更か、公用、あるいはグループ借用で活用されています。建物自体の耐用が何時まで保てるかが、先ず問題です。
人が住みながら絶えず補修を加えなければ劣化は止められないでしょう。
市民がつくる市民塾
「白壁アカデミア」が広いテーマで、まち作りの問題意識の講座を現地などで開いています。
この地区は、名古屋市内では住宅地評価額最高の地域です。固定資産税も相当なものでしょうし、相続が発生した場合、存続が危ぶまれます。
川上貞奴邸は、所有する企業が敷地の用途変更の為、今年度中に市が調査解体保存の予定ですが、解体したものをどうするのかが、次の問題です。
過去の文化と、未来への発展という分岐点をどうすれば良いのかは、私も、その、はざ間で育ってきましたから実感でわかります。
一つの例として名古屋駅があります。名古屋駅は、この年末、ツインタワーの高層ビルとなりオープンします。
名古屋の市街の構成をを大きく塗り替えると言われる大きな変貌です。
私は、旧名古屋駅の取り壊しのイベント「さようなら名古屋駅」に行きましたが、幼時、父と共に旅した時の、プラットホーム、コンコース、地下食堂の面影が今も忘れられません。
何よりも、私の脳裏に焼き付いているのは
「自分史のかけら」にも書いた、名古屋空襲で家を失い、焼け野原を歩いて、彼方に見える名古屋駅を目指して、歩き、住み慣れた名古屋を後にした日の事です。
人生は衣食住の中にあります。過去を大切にしながらも、未来の事も考えなければなりません。
過去が、すべてロマンと美しい思い出に彩られていたわけではありません。
封建社会、貧富の差、苛酷な労働、思想の弾圧が有った事も知っていなければなりません。
自分の考えを自由に書いて発表する事も規制された時代でした。
インターネットで文章を書いて公開するなどは、とても出来なかったでしょう。
今、二十一世紀を前にして、何が人間にとって必要であるのか、次の世代が、健全で豊かな心で円満な日常を暮らせるようになるのか、今一度、よく考える時が来ていると思います。

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