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映画「明日への遺言」私評
 平成二十年(2008)三月二十九日記

 私は、原作「ながい旅(大岡昇平著)昭和57年5月刊行・61年7月新書版発行」を、昭和六十四年に読んでいました。これは前にも書きましたが、フィリッピンでの父の戦死の詳報を、戦後四十三年を経てから初めて知り、フィリッピン戦線の状況を知る為、「レイテ戦記(大岡昇平著)昭和46年10月刊行・49年11月新書版発行」を読んだ時、続いて読みました。
ただ、ドラマチックな展開は無い裁判の地味な法廷議論なので、一通り読んだだけで再読はせずそのまま本棚に置いていました。
 今回、映画化された事で本の所在を思い出し再読しました。矢張り解りづらい内容です。それを十五年前から構想、脚本を興した小泉尭史監督は、どういう意図で映画化を実現したかと思いました。小泉監督は六十四才ですから戦争体験は有りません。
 私は、昭和二十年の「名古屋空襲」で、一月二十三日、爆弾被害家屋一部破壊隣組死者二名、三月十二日、近隣被災の為避難、三月十九日、焼夷弾罹災一帯焼失隣人焼死で住まいを失いました。九才ですが、ハッキリ記憶があり恐怖と不安を身に沁みて感じました。縁故での学童疎開も体験しています。
戦争体験の無い小泉監督が「名古屋空襲」を、どう表現するかが問題でしたが一切創作シーンは有りません。CGであろうがセットであろうが嘘像になるからでしょう。第二次世界大戦の実写や東京大空襲、広島・長崎の罹災写真が冒頭に説明として使われます。
 それでは、この映画は何を語ろうとしているのでしょう。
「藤田まこと」演じる、岡田資東海軍管区司令官の人間像と、米軍による軍需施設の無い一般住民地域への「無差別絨毯爆撃」の非道性を、勝者が敗者を一方的に裁く軍事裁判の法廷で明らかにすべく主張します。撃墜されたB29からのパラシュート降下搭乗員を「戦争犯罪者」として処刑する命令を方面軍司令官としての責任の下、略式命令した責任を一身に負い従容として刑死した経過を表わしたものです。斬首による処刑の実行者など十九名についての責任は総て命令者の自分に属すると一貫した信念に徹した行動が潔い記録として伝えられました。
二十三年五月、岡田資司令官に絞首刑、他十九名は重労働終身刑などの判決でしたが、その後、いずれも岡田司令官以外は総て減刑、早い者は翌年「執行停止」又は「残刑免除」で釈放、最長の大西参謀も三十三年には釈放されました。
岡田資司令官についても減刑嘆願運動があったようですが岡田司令官は「望まず」と言われました。結局、岡田司令官のみが責任を負ったという事です。
昭和二十四年九月十七日、刑が執行され六十年の生涯を閉じられました。
 外地では出鱈目な判断で多くのBC級戦犯が処刑されました。ドラマ「私は貝になりたい」などで知られます。上官命令に従っただけの下級兵士が現地人の報復心で処刑されました。戦時では日本軍によってゲリラ掃討の名目で民間人を見せしめの為惨殺した事が頻繁でした。戦争には勝者、敗者のどちらも大きく傷付きます。
 この難しいテーマを映画で表現するのはかなり難しい事です。それで永い時間が掛かったのでしょう。岡田中将を演じる俳優がなかなか見当たらなかった事も一因でしょう。「藤田まこと」を説得するのに半年掛かったという事です。「藤田まこと」の、お兄さんは十六才で兵役志願、翌年、沖縄沖で戦死されており、その思いが自分にもある事で腰を上げられたそうです。七十五才です。空襲時は京都に居て空襲体験は無いそうです。
 戦争体験の恐怖は実体験した者にしか解らないでしょう。私達兄弟妹四人は、父も失なった事によって自分の未来の方向も失い、それぞれが悪戦苦闘の人生でした。それでも全員生き抜いてきました。
 今、こういう映画が作られたという事は、毅然とした信念を失っている日本人にメッセーを送らなければという意図が小泉尭史監督によって発せられたと思います。
 日本全土に「無差別爆撃」を命令した「ルメイ将軍」が後になって航空自衛隊育成に貢献した功績を称え勲一等旭日大授章を贈るという政治的な配慮は戦争被害者には納得できない行為です。僅か数年前には日本全土を焦土にし多くの人命を奪った人物が最高位の勲章を受けるという事に言葉を失います。
 これには当時の世界情勢が背景にあります。二十年八月十五日、敗戦になり内地の大混乱の中に、外地からの帰還が始まりシベリアからも共産主義に洗脳された人達や国内では、徳田球一、野坂参三、宮本顕治などの共産主義指導者が活発な行動を起こします。下山事件、三鷹事件、松川事件が起こったのが同時期です。思想の混乱期でもありました。
昭和二十五年、朝鮮戦争が勃発、京城(ソウル)が北朝鮮・中国軍に占領されました。日本駐留の米軍が朝鮮へ出兵、ソウルを奪還、昭和二十八年朝鮮戦争休戦となります。
二十五年、日本国内では警察予備隊設置、二十七年、保安隊と改称、二十九年、防衛庁・自衛隊発足へと移行して行きます。
占領政策という政治的配慮が複雑に絡んだ状況の中で、最高責任者である、天皇の戦争責任や典型的な無差別爆撃である原爆投下を命じたアメリカ大統領の責任の発言が裁判中に起こりますがすぐ「その議論には及ばず」と封殺されます。一般国民には伝えられません。
 東海軍裁判の裁判記録がアメリカ国立公文書館から公開されたには裁判終了三十年後の事であり「東京国際A級裁判」では全く取り上げられなかった米空軍無差別爆撃を戦争犯罪として堂々と戦った岡田司令官を取り上げたのがこの「ながい旅」です。
それまでに岡田資に関する文献は遺稿集など多くがあったのですが正確な公式記録が世に出るには永い時間が掛かったのです。
 国内では戦争関係者の公職追放が解かれ、A級戦犯だった人の政界復帰もあり、自衛隊には元軍人で要職に付いた人もいます。若い時から兵役について前職を持たない人は役所へ押し掛け「国の為に身命を賭けたのだ。仕事を与えるべき」と要求し、消防・農林・厚生・土木建設などに就職、定年まで勤められ年金生活を送られた人がかなりあり私もそういう方を多く知っています。
 空襲などによる民間被害者には全く何の補償もありません。家族を失い、或いは身体に損傷を受けても「やられ損、死に損」のままです。軍人で傷付いたり死んだ人にはある程度の補償が有りますが、留守家族で非戦闘員である、女・子供・親は、空から降り注ぐ爆弾、焼夷弾に逃げ回るばかりでなす術もありませんでした。
今も世界各地で同じ事が繰り返されています。
かっての一面の焼け野原は今は想像も出来ない新しい姿に変わりましたが戦争体験者に当時の姿は永久に焼き付いて記憶からは消えません。
出来る限り伝える義務を改めて思い起こさせる事になるきっかけが、この「映画 明日への遺言」にも込められているのかと思います。

 私の名古屋空襲体験の裏付けは「名古屋空襲誌(名古屋空襲を記録する会)全八冊」によります。
「名古屋空襲を記録する会」の活動の始まりは、昭和四十六年(1971.8)からで 、七十三年八月の「名古屋大空襲展」などの準備活動などの後、各種公式記録や体験談などを纏め、77.2「第1号」(1.100部)が発行されました。同年5月「第2号」10月「第3号」翌78.1月「第4号」5月第「5号」翌79.1月「第6号」6月「第7号」11月「第8号終刊」で、その間増刷やケース作成、セット販売を経て九年掛かりの活動は完結されました。
掲載の資料には当時の「極秘」資料も多く含まれます。

「愛知県防空課資料」「名古屋市防衛部指導課」の被害状況一覧表
日時、警報発令時刻、来襲機数、投下弾種類・数、被害場所、人的被害数、物件被害、罹災者数、被害主要物件等、詳細に亙ります。

米軍側では「第20航空軍(B29部隊)日本本土爆撃概報(日付順)(地域別)
月日(夜はN)目標、部隊、出撃機数、爆撃機数、投弾種類・数、B29損失機数、人員数、迎撃日本機数・撃墜数、爆撃成果

体験談、関係者メモ、新聞記事が纏められていますが何といっても体験談の生々しい目撃証言が胸に刺さります。

 住宅地への爆撃は三月十二日が始まりで、私は二回目の十九日に罹災、逃げ回らずに300メートル程の東区役所地下室に入り警戒警報解除になった早朝外に出て完全に焼け落ちた一面の光景を見ました。それで無傷で済んだのです。
名古屋空襲は、それから本格的になり五月十四日の名古屋城炎上は名古屋市民にとっては痛恨の出来事でした。歴史資料や文化財が失われ復活されていません。
六月九日の愛知時計の爆弾投下は軍需施設とはいえ多くの動員学徒をはじめとして1.200余名の命がが十分間に失われ重軽傷者は3.000人に達し肉片飛び散る地獄図と化しました。私達は、その時には名古屋を去り一宮に来ていましたが空襲は地方都市にも及び一宮も七月二十八日夜市街地の80%が焼失しました。幸いにも、それからは逃れましたが・・・。

何十年も前から「戦後は終った」と言うようになり日本の歴史の恥として語らないようになる風潮があります。「沖縄戦」の記述やアジア諸国との確執が解けません。
私も凍結していたのですが「明日への遺言」を見て、その意図を汲み取る為、所蔵の資料、蔵書を見直す機会を与えられました。
 戦場体験者は八十才以上になり殆どは世を去られました。遺児の私さえ七十才を過ぎました。実体験を伝える残り少ない時間を有効に使いたいと思います。

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