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丹陽町重吉八幡社甘酒祭

一宮市丹陽町重吉 八幡社 祭神 応神天皇

由緒
その昔、神宮皇后が朝鮮征伐から凱旋され、応神天皇をお産みになり、その御胞衣(おえな)を箱に納めて埋められたといわれる、筑前国はこ崎八幡宮の別宮です。
その時、彼の地の民衆が、凱旋と御安産を祝い、とりあえず甘酒をこしらえて、母子に差し上げ、強飯を蒸して将卒をねぎらった。
その行事がここ別宮に伝えられたという。

祭典
昭和三十六年一宮市無形文化財に指定

昔は、旧暦八月十五日 三ツ井城主、尾藤源内の子孫、桑山氏が主となって祭事を行っていました。
明治30年頃、桑山氏は甘酒田として免租地となっていた、六畝歩を村に寄付。それ以来、村の行事となった。
近年は、10月第4日曜日に行われています。
宿元は本郷、新田。クジで定め、神田で採れた、米180キロ(1石2斗)から甘酒を造り、午前は本郷、午後は新田、宿元で男女部落民集って甘酒を飲み御神徳と豊穣を感謝し語り合います。
午後、宿元を笛、太鼓で囃しながら50人程の行列が出発、7キロ(5升)の甘酒桶4個と強飯7キロ(5升)6個を神前に供え、部落の少年少女が巫女舞を行います。
巫女舞が終わる頃、裸男が神前でお払いを受け、おさがりの強飯と甘酒を受け、一斉に境内に走り出し、鳥、虫に撒き散らします。
これを頂くと悪病災難を免れるというので、これを貰おうと参拝者がひしめきます

すべて撒き終えた裸男達は、勢いよく、一の大鳥居の上をめがけて空になった桶、おひつを投げ越させ、落下してこなごなに割れれば今年も豊作じゃということで祭は終わります。
祭の栞より

本郷公民館 出発の寄せ太鼓 八幡社境内へ
居をくぐり拝殿へ 手には甘酒、強飯の入った桶
巫女さんの行列 到着を知らせる寄せ太鼓
巫女囃子に乗せて神楽の奉納 太鼓、鼓、笛の巫女囃子
おひねりが飛ぶ 裸男が本殿でお払い
桶の強飯を撒き散らし参拝者には手渡し 甘酒は湯飲みで
裸男、巫女さん、参拝者が境内に溢れる 巫女さんも甘酒を
’98 鳥居へ桶を投げ豊作を占う 今は行われない 桶はばらばらになり今年も豊作

きさらぎレポート
私は、重吉新田に知人があり、数年来、取材をさせて頂いています。
初めてビデオ取材したものは、保存会会長の中島和直さんに、お届けしました。
今は、甘酒造りは今は公民館で造られるようです。一宮市博物館のライブラリーには、かなり以前の様子を撮影した映画がビデオになり、見る事ができます。当番の家での作業の様子や、今では見られなくなった紋付き羽織での行列が見られます。
本郷公民館には、子供たちが作った壁新聞に甘酒造りの様子が紹介されています。
行列は本郷公民館から出発します。巫女になる少女達は、隣接する観音堂で着付けをし、髪飾りを付け、鈴、扇を手にします。
男の子は法被を着て笛を持ちます。
午後1時30分過ぎ、寄せ太鼓が鳴り、300メートル程の道行きが始まります。笛と太鼓の道中囃子で、ゆっくりと八幡社に向かいます。
この時、笛は中島さんが吹きます。先頭の2人の先達は鉄の錫杖を引き摺りながら行きます。その後を、総代、神官、巫女、囃子方、供物を入れた長櫃や桶を抱えた人達が続きます。境内に到着すると、到着の太鼓が鳴り、境内で神事が行われます。
その後、神官や地元総代の方達は拝殿に入り神事が行われます。裸になる人達は社務所に入り待機します。
境内では、神楽殿で巫女舞が始まります。大太鼓、締め太鼓、鼓、笛での「神楽囃子」に合わせ舞が始まります。
小さい子から始まり、鈴を振りながら行きつ戻りつの舞です。1曲が終わるたび、見物衆が「よーい」とおひねりが投げられます。
かなり、沢山のおひねりが投げ入れられ雰囲気が盛り上がります。大きい子は両手に扇を持ちくるくる回しながら行き来します。
囃子のテンポは、だんだん早くなり、クライマックスが近づきます。裸男達が、社務所から声を上げながら現われます。
裸男達は拝殿前に整列します。神官のお払いを受けた裸男達は拝殿に入り、巫女囃子の終りを待ち、甘酒、強飯に入った桶を抱えて境内に現われます。
強飯は空高く撒き散らされます。これを食べると悪病災難を免れるという伝承があり、人々は裸男から貰って食べます。
白い餅米を蒸したものです。甘酒は、昔は撒き散らしたかも知れませんが、今は湯飲みで頂きます。
時間を掛けて作った、本当の麹の甘酒で素朴な味わいです。今は祭はこれで終わりになりますが、以前はその、桶、お櫃を鳥居に投げ、落下したものがバラバラになると豊作だと喜んだといいます。
私が訪ねるようになった時も、その行事はありませんでしたが、一昨年、裸男達が中止されていたものを、知ってか知らずか、投げ始めました。中止された理由は、怪我人が出た事と、桶の修理が難しくなったからとの事です。
投げられた桶は、殆どバラバラになりましたが、境内から外に飛び出したものが物を傷つけたとかで、再び厳重禁止になりました。
私は、たまたま取材出来ましたが、貴重な場面に会えました。
’99年は、やはり行われませんでした。
今年、元日の中日新聞の特集ページに「まつり今昔」というものがありました。
4つの祭りが紹介されました。その一つに、この祭りが紹介されました。その中で、以前は境内にテントが設置され、瓶に甘酒が用意され、机に湯飲みと、おろし生姜が用意され、誰でも自由に相伴できたのが、例の和歌山毒入りカレー事件で中止され、昨年から、わざわざ、午前中に公民館へ行かなければならなくなりました。
行事の省略が進む事は、祭りも衰退して行く事になります。

私の勝手な私見
当事者でもないものが、勝手に意見を述べる事は差し手まがしいと叱られるでしょうが、祭り好きな第三者の感想として、残念だと思う事を遠慮しながら書いてみようと思います。
行列の先達は、栞の写真にあるように羽織ぐらいは着れないかなと思います。今は、略礼服ですが、市文化財指定ですから、出来ればと思います。新調は大変ですが、大須の古着商で手に入れるという手段はあります。私は、日舞の紋付き衣装を数千円で入手しました。稽古着や水商売の人達が多く利用しています。これは一つの手段です。
甘酒の振る舞いですが、やはり境内で頂きたいと思います。これも、一つの祭りの風情ですから、複数の人とか、警備を頼むとかして復活して欲しいと思います。
桶投げですが、何年に一度とかでもいいですから、周辺の方の協力と、見物衆の整理を図って、できればと思います。
囃子の笛ですが、練習が難しいのは、どの地区も同じようで、今伊勢、北方のばしょう踊りも笛の継承で困っておられるようです横笛を吹かれるのは中島さんだけというのは寂しいです。子供たちは、今は学校の先生の採譜でリコーダを吹いています。
音だけ聞けばそれでもいいかもしれませんが、微妙な転がしなどが出来ないのは残念に思います。
千秋の馬場獅子屋形は子供が立派に横笛を吹きます。川口会長さんのご苦労には敬服しますが大変な事だと思います。
甘酒祭りは、よく紹介され、遠くから見に来る人もいます。私も、どういう祭りか訊ねられますが、短時間であっという間に終わってしまうので歴史があるのに残念な気がします。
神楽殿の反りの大きい屋根、飾り瓦、欄間の彫刻などなかなかの物だと拝見します

八幡社から100メートル程の所に重吉城跡があり、碑が建てられています。
尾藤源内重吉城跡
本城は尾藤源内の居城と伝える。天正12年(1584)小牧、長久手の戦いの時、徳川織田方の小牧山の付城として清須と小牧を結ぶ連絡確保の役割を荷う。
同年9月7日家康は重吉に陣を布き秀吉と対峙した。

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