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’06 歩こう!文化のみち 11.3
今年も、十一月三日、恒例になった「歩こう!文化のみち」に行ってきました。
全回参加ではありませんが、第一回から参加しています。今年は初めて「徳川園」から歩いてみました。
名古屋駅バスセンターから基幹バスで「徳川園新出来町」下車(25分)。徳川園には九時五分頃には居ました。
9.30分受付開始という事でしたが、20分頃マップを貰ってスタート。
ここで「東区文化のみち あれこれ(No4)」を頂く。(改題 東区ちょっと、ちょっと、いいはなし)という小冊子ですが、あまり知られていない面白い事が書いてあります。NO3まではB5版でしたが、今回はA4と大きくなりページ数も本文32Pとなりました。
閉じ込みで、名古屋城から碁盤割、名古屋駅一帯の「明細図」が、明治十年十二月と明治二十年八月二十六日(重訂)の二枚含まれています。本文中にある、東区板屋町生まれの、吉田禄在氏の、名古屋区長時代の十年間に実現した東海道線開通による名古屋停車場や広小路拡幅のの経緯を示すものです。
停車場周辺の町並みや、名古屋城内の軍施設の変化が見られます。
「東区文化のみちガイドボランテイアの会」の編集によるもので、これを頂くだけでも参加の価値が大いにあると思います。過去のものは保存しており時折り読み返しています。
「徳川園」では「市政資料館」の明和高校吹奏楽コンサートのようなオープニング行事は特に無く、私が出る時居た人はは二十人位でした。
「建中寺」ここには相当大勢の人が居ました。これは、JR東海が「大曽根駅から文化のみちを歩こう」というイベントを今年始めたので、その人達が公園から境内まで一杯居ました。
私は、殆どの場所を既に拝見しているので、今回は早々とポイントをスタンプしてしまう考えでしたから、スタンプを貰い「建中寺総図(天明六年(1786〜嘉永三年(1850」)と、現在の「建物・敷地配置図」を頂きました。
前回も有ったのですが時間が遅く貰えなかった「元贇焼(限定二個入り200袋)が頂けました。消滅した東区特有の菓子を復元されたものです。写真に保存しました。8*3センチの8の字状のクッキーの硬い焼菓子です。
「陶磁器資料館」スタンプ。享保年間創業の灯火用油商であった「熊野屋」の、お爺さんは相変わらずお元気でした。
「金城学院栄光館講堂」AM10.00、ここでは中・高グリークラブ(約50名)の女声合唱団演奏。紅葉・浜辺の歌・こきりこ・荒城の月。美しいハーモニーで歌われました。折りしも同時刻、広小路では「中日ドラゴンズ優勝パレード」が始まった頃、特別追加で「燃えろドラゴンズ」がアクションを付けて歌われ客席からも手拍子が鳴りました。
メインは、井沢元彦氏の文化講演会「名古屋城の本丸御殿」なのですが、正午までの予定なので、一旦最後尾席に移りましたが途中で立つのも失礼と思い、次のコースへ向かいました。
「主税町長屋門」では大きな名古屋城碁盤割旧図を拝見。
「双葉御殿」は三十人ほどの列が玄関前に並んでいました。
南に向かって「貞祖院」へ。水禽窟が三つ有りますから耳を澄ませましたが、栄交差点に着く頃の「ドラパレード」の取材ヘリの空からの轟音でよく聞こえませんでした。
「ギャリー花藤」(御釜師加藤忠三郎氏)の茶釜拝見。
北へ戻って「撞木館」(旧井元邸)へ。何度も行っていますが、今回気になったのは二階の浴室。タイル貼りで陶製の大きな浴槽とシャワーが壁に付いています。給水は問題無いでしょうが給湯の方法はどうだったのでしょう。二階ですから地上の何処から補給したと思いますが機会をみて尋ねてみます。
「堀美術館」スタンプ、「豊田佐助邸」は、お庭から拝見。隣の「春田鉄次郎邸」は二階から、今は立ち入れない隣の「春田文化住宅」を遠望しました。玄関を出てボランテイアガイドに方に「誰も住んで居ませんか」と聞きましたが家主と一人の方が住んでいるという事でした。消滅は近いと思われます。隣の豊田邸の小庇に鳥除けがズーツと付けてあるので「昔から有りましたか」と聞きましたら「イヤァ、鳥がズラリと並んで糞害で酷い事になったので皆で付けました。ここにも付けました」という事でした。周辺は木々が多いので鳥も沢山来ます。大変ですね。
一本北の料亭「加茂免」この辺りの風景は静かな雰囲気でで間もなく紅葉が見事です。結婚披露宴も時々よく有り、記念撮影が玄関前でありロマン溢れるバックグラウンドの背景が一幅の絵になります。
「主税町教会」でスタンプ、終点の「市政資料館」には正午過ぎ。ポイント回りだけなら二時間で回れます。
二年前は探しながらのゴール「徳川園」で終了の三時ぎりぎりでしたから随分早くなりましたが、ただ回るだけでは味気無いので次は違ったバリエーションを考えます。
元贇焼
民国の帰化人、元贇の伝授で作られた名古屋のみに伝わった歴史ある菓子だが今は消えている。
1916年、長崎に渡来、寛永三年(1626)尾張徳川藩主義直に招かれ来名。儒教・陶芸・菓子・建築・拳法などを伝えた。寛文十一年(1671)没。建中寺に葬られた。現在墓は平和公園にある。
元贇焼は、桜天神門前にあった桜屋に口伝で伝えられたというが一時途絶え、幕末の嘉永元年(1848)長者町の菊屋が復活売り出した。後、松川屋でも銘菓として作られた。昭和になり八事の料亭八勝館で宿泊客用の茶菓子として販売もされたが今は途絶えた。
この度、「東区文化のみちガイドボランテイアの会」八木美枝さんたちにより、文献に基づき原材料・分量・製法など吟味、試行錯誤の上再現されたとの事です。(会資料より引用)
食感は食した人のみに与えられます。次の機会には是非どうぞ。
秋の文化のみち
「加茂免」付近の紅葉 偶然見かけた結婚記念撮影 堀美術館
和洋折衷の春田文化住宅 昭和のエリートが暮らしたモダンな空間 地上に降りた屋根神様
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