今、なぜ「古事記」なのか
【出典(現代語古事記 竹田恒泰氏による)
『古事記』は天武(てんむ)天皇の勅命によって編纂がはじまった現存する
我が国最古の歴史書である。稗田阿礼(ひえだのあれ)が、天皇の系譜・事績そし
て神話などを記した『帝紀(ていき)』『旧辞(きゅうじ)』などの書物を誦習(しょうしゆう)
(書物などを繰り返し読むこと)し、それを太安万侶(おおのやすまろ)が四ケ月かけ
て編纂し、元明(げんめい)天皇の御代(みよの和銅五年(七一二)に完成し、天皇に
献上された。
上・中・下の全三巻に分かれ、原本は存在していないが、後世の写
本が現在に伝わる。ちなみに、平成二四年(二〇一二)が『古事記』
完成から千三百年の年回りに当たる。
では、今なぜ『古事記』なのか。その答えは、二十世紀を代表す
る歴史学者であるアーノルド・J・トインビー(1889〜1975)の遺し
た次の言葉に端的に現れている。
 「十二、十三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、
例外なく滅んでいる」
 この言葉は、民族の神話を学ぶことが民族存立の要件であること
を示唆するもので、現在の日本人が日本神話を学んでいないことが、
どれだけ大きな問題を孕んでいるかを教えてくれる。
 かって我が国が連合国の占領下にあったとき「歴史的事実ではな
い」「創作された物語に過ぎない」「科学的ではない」などの理由
で『古事記』『日本書紀』(最後の文字をとって「記紀」と総称する)
は「学ぶに値しないもの」とされた。それだけではない。それらは、
日本が軍国主義に向かった元凶とされ、さも有害図書で有るかのよう
な扱いさえ受けてきた。
 しかし、記紀を封印し、国民の意識の中から抹消することは、日本
の無力化を意図する連合国の対日戦略であったことにそろそろ気づく
べきだろう。連合国の日本占領の最大の目的は「日本が二度と再び欧
米に対して戦争を起こさないように、骨抜きにすること」だったはず
だ。
 すなわち、連合国は日本人と日本神話を引き裂くことによって、近
い将来日本人が日本人の精神を失い骨抜きになることを意図していた
のである。
 生きたカエルをゆでようとしても、カエルは鍋から飛び出してしま
うという。熱くないうちにカエルを鍋にいれて、徐々に過熱しなくて
はならないらしい。このことは「ゆでガエル症候群」と呼ばれている。
もし連合国が、占領中に皇室を廃止し、政府を解体し、あらゆる神社
仏閣を焼き払い、公用語を英語に切り替えようとしたら、日本人は強
く反発したことだろう。本当に一億人が竹槍を持って戦った可能性も
ある。しかし、神話を教えないという方法は、日本を「百年殺しの刑」
にかけたようなもので、その意図はわかりにくい。そのため、日本人
はその意味が分からず、いまだに「ゆでガエル症候群」にかかったま
まなのである。
 神話というものは、必ずしも史実だけが書かれたものではない。世
界の主な神話類には、史実とは思えない物語の数々が収録されている。
ところが、近代合理主義の権化ともいえる米国は対日政策とは裏腹に、
しっかりと子供たちに神話や聖典を教え込んでいる。米国では『聖書』
を知らなければジョークも理解できないといわれる。「史実ではない」
「科学的ではない」などという理由で、神話や聖典を学ばなくてもよい
ということにはならないのである。日本人なら、好き嫌いの前に、日本
神話に何が書かれているかは、知っておかなければならない。
 よく「天孫降臨は歴史的事実ではない」とか「神武天皇は実在しなか
った」という人がいるが、『古事記』は神話であり、聖典であり、事実
かどうかという読み方は、読み方としては間違っている。ここに書かれ
た記述は「真実」なのであって、「事実」かどうかはさして重要ではな
い。
 このことは『聖書』に置き換えて考えると分かりやすい。『聖書』に
は天地創造やマリアの処女懐胎をはじめ、とても事実と思えない記述も
多い。しかし、欧米ではこうした記述を「事実」ではないと言うのは、
愚かな主張とされている。
 一つ例を挙げよう。有名な「マリアの処女懐胎」は、生まれてきた子
が神の子であることを担保している。。もしマリアが処女でなかったな
ら、生まれてきたイエス・キリストは神の子ではなくなってしまう。
マリアの処女性の否定は、キリスト教社会の根底を揺るがすのである。
 よって、「神武天皇は実在しない」という主張は、「イエスには人間
の父親がいた」と言うのと同じくらい愚かな主張なのである。マリアの
処女懐胎は「真実」なのであって「事実」かどうかはさして重要ではな
いのだ。「真実」であることは「事実」であることよりも尊い。
 ところで、いくら神話の事実性は重要ではないとはいえ、物語の多く
は事実を反映させたものであると考えるべきだ。近年の考古学の成果に
より、事実ではないと思われていた事柄の事実性が確認された例も多い。
 また、日本は現存する世界最古の国家である特殊性から、記紀の価値
が分かりにくいのかもしれない。我が国は文字のない時代に成立し。統
一王権に成長したため、建国と統一に関して固有名詞が伝わらなくて当
然である。だからといって、我が国が建国されなかったことを意味する
わけではない。もしエレサレムにイエス・キリストの直系の子孫が国王
として今も君臨していたなら、分かりやすかっただろう。国王の地位を
説明するには『聖書』を持ち出すしかないからだ。
日本は、現存する唯一の古代国家であり、国の由来を数十年や数百年の
短い歴史の中で語ることができる他国とは歴史的背景が全く異なるので
ある。
『古事記』は天皇の命により国家が編纂した公的な歴史書であり、決し
て個人が趣味で書きあげた歴史小説などではない。『古事記』には政府
見解が書かれていると考えて欲しい。そして、歴代の政府がこれを否定
したことはない。
 三巻のうち、上巻は神の代の物語、中巻は神と天皇の代の物語、そし
て下巻は天皇の代の物語となっている。『古事記』の目的は、天皇の根
拠を明らかにし、それを子子孫孫に伝えることである。『古事記』を読
むことは、天皇の由来を知ることであり、それはすなわち、日本とは何
か、そして日本人とは何かを知ることである。
 同じ時代に編纂された歴史書に『日本書紀』がある。内容的にはかな
りかぶる部分が多いが、編集方針の違いから、細部には異なる点も多い。
『日本書紀』は正史であり、対外的に用いられていたと思われる。それ
に対して『古事記』は古代日本人の心情が現れた最上の書と評価してい
る。
 先述のトインビーの言葉にあるように、日本人が日本神話を学ばなく
なったら、日本民族は必ず滅亡する運命にある。私は日本を残すには、
教育を変えるしかなく、その教育の中心には『古事記』がなくてはいけ
ないと確信している。また、近年は多くの人が日本人としての誇りを再
発見しようとしているのもまた確かだ。日本のことを知ろうとしたら
『古事記』を読むのが一番よいと思う。本書を『古事記』の入門書とし
て役立ててもらえたら幸いである。