評価は 巣立ちゆく子どもたちの手に
人の生涯を分かつ難題に
語るべき言葉は たやすく見つかりはしない
それが どんなに幼い心ではあっても
幼いがゆえに 深く 純粋に刻まれる
苦悩し 己に反問し 葛藤を繰り返し
教育の 現場で 語られる言葉は真剣勝負
きれいごとでは すまされぬ現実に
流されまいと 目前の子どもたちに 日々向き合うのは
誰かに 「評価」されるためではない
「評価」されるいわれなどない
「評価」に左右される教育など 何の意味がある
あるとすれば
教師の言葉や行動に 心ふるわせ
時として うちのめされる 当の 子どもたちだけしかいない
絶えずうつろい 変化する人の心を
それを 誰が どうやつて
「評価」するというのか?
何十年先に 芽吹くやも知れぬ 宝の種子を
誰が どうやって 輝かせたか
あるいは 可能性を摘み取ってしまったか
それを誰が「評価」する?
誰が点数をつけられる?
その「評価」にせきたてられた教師に
子どもたちの姿が見えるのか、その声が聞こえるか?
「評価」は巣立ちゆく子どもたちの手に
「評価」は育ちゆく 子どもたちの 心の中に
それは 無数の個性となって実を結ぶ
どうしても ゆずれない 給与を減らすと言われても
ゆずれない 教育の あるべき姿
今より輝かんとする 若葉に何を伝えるか
己が心血を注ぐべき 時と手段を
その真心を
なぜ 校長や教育委員会の顔色を伺い こびへつらって
ゆがめられねばならぬのか
上司の顔色を 「評価」を気にして
子どもたちを守れるか?
子どもたちに 真剣に向き合い 魂をぶつけあえるのか?
己を信じて行動せよ と
失敗や 挫折を恐れるなと
語ってきたのではなかったか
恫喝に屈することなく
懐柔 甘言にまどわされることなく
信念を貫かねばならぬ時があることを
今こそ 己が生きざまで示し 伝えよう
教育を 子どもたちを
権力の好き勝手にはさせぬ
2006.10.25 N・Y
「新勤評反対訴訟」に寄せて