EU3IN ポーランドAAR 9 1770-1820

最後に皆ヨーロッパから出て行け!

1773/02
やーーーーーーっと宗教的混乱が収束。

や〜っと宗教的混乱が収束

何と250年も続いていた。

1775/03
交易レベルが53に到達。国策「現地調達」を選択。

1776/02 - 1776/09
ロレーヌへ宣戦布告。フランス・プファルツが敵に付いた。
上記3国からオート・ブルゴーニュ・リヨン・ドーフィネ の4プロヴィンスと計3650ダカットを得て和平。 さらにロレーヌ・プファルツを属国化。
これで西ドイツにちんまり固まっている小諸侯が全て、そして神聖ローマ加盟国も全て属国となった。

1781/09 - 1782/03
フランスへ宣戦布告。
フランスからアヴィニョン・プロヴァンス・ヌヴェール・ノルマンディー・アーマー の5プロヴィンスと150ダカットを得て和平。

1782/11
新王ステファン2世即位。能力値は 3-6-7。久々の戦争屋。
そしてそれにより民兵法可決。規律が上昇する。

1784/01
・・・と思ったら早くも新王スタニスワフ2世即位。能力値は 7-7-6。まあ優秀だから良いか。

1787/07 - 1790/06
フランスへ宣戦布告。 弱体化した所為かいろんな所が同盟したり独立保障したりしていた。 ポルトガル・イギリス・カシモフ=ハン国・シャルジャが参戦。
イギリス・フランス・カシモフ=ハン国から フィニステール・レイキャビク・モルビアン・メーヌ・ブルボン・オーヴェルニュ・コストロマ の計7プロヴィンスと計2500ダカットを得て和平。
さらにポルトガルからルクセンブルクとショーニーを独立させる。
ポルトガルの要塞が固くて時間がかかった。
そして戦争が一段落着いたところで密集歩兵にアップグレード。これでユニットが最強に。

1791/01 - 1791/06
早々と同盟を解消したルクセンブルクへ宣戦布告。早くもフランスが独立保障していた。らっき。
というわけでフランス・ルクセンブルクから オルレアネ・ヴァンデ・ブロワの3プロヴィンスと1250ダカットを得て和平。
さらにルクセンブルクを属国化。
これにてドイツ制覇完了。さらに

フランスヨーロッパから逃走

首都を包囲したことでフランスがアフリカへ遷都した。

1793/01 - 1793/06
今度は東へ進出。ティムールから変態したムガールへ宣戦布告。 カシモフ=ハン国・ノガイが敵に付いた。
上記3国からアルメニア・モスル・バーディヤト=アッシャーム・アルジャウフ・ ザヴォローチェ・サライ・モルドヴァ の計7プロヴィンスと計1850ダカットを得て和平。
アルジャウフがイベントで勝手にコア化したので砂漠のど真ん中を手に入れてしまった。 それはそうとムガールなんて初めて見たよ。

1795/01
統治レベルが61に到達。国策「士気」を選択。
新王ヴワディスワフ6世即位。能力値は 3-7-5。まあ外交が高いので良しとする。

1796/06 - 1797/06
フランスの同盟関係の隙をついてシャルジャに宣戦布告。 ムガール・モロッコ・マムルーク朝・アルジェ・フランス・コラサンとワンサカ付いてきた。 まあ勝てるんだが。
ムガール・フランスから カラバク・ダゲスタン・シャーバン・ムルガン・イル=ド=フランス・アンジュー・リムーザン の計7プロヴィンスと950ダカットを得て和平。

1799/05 - 1799/12
オスマン帝国属国のセルビアに宣戦布告。
オスマン帝国からジャニナ・コルフ・カスタモヌ・アダナ の4プロヴィンスと300ダカットを得て和平。

1802/04 - 1802/06
フランスが独立保障していたキプロスへ宣戦布告。と思いきやフランスはキプロスを見捨てた。
というわけで賠償金1550ダカット+キプロスを属国化で和平。

1802/08 - 1803/12
フランス狙い第2弾としてカシモフ=ハン国へ宣戦布告。フランスの他ノヴゴロド・ムガールが付いた。
ムガール・フランス・ノヴゴロドから サントンジュ・ポワトゥー・ベアルン・トゥールーズ・ペリゴール・アルマニャック・ルエルグ・ラングドック の8プロヴィンスと計550ダカットを得て和平。

フランスヨーロッパから完全追放

これでフランス(笑)はヨーロッパから締め出された。

1805/02 - 1805/10
オスマン帝国属国のセルビアに宣戦布告。
オスマン帝国からビチュニア・ブルサ・アンゴラの3プロヴィンスと100ダカットを得て和平。

オスマンも遷都

とうとうオスマン帝国も遷都である。どうせならアフリカにでも逃げれば良いのに。

1808/03 - 1809/03
ガスコーニュのためイギリスへ宣戦布告。同盟国のカスティーリャ付き。 何れも海軍が強力な大国であるが、今のポーランドには関係ない。
イギリス・カスティーリャから ガスコーニュ・ウェセックス・コーンウォール・ケント・ヘローナ・ピレネー・ナバラ の計7プロヴィンスと計800ダカットを得て和平。
折角なのでガスコーニュ以外にもいろいろ頂いた。

1810/10 - 1811/11
オスマン帝国属国のセルビアに宣戦布告。
オスマン帝国(セルビア)からトラキア・セルビアの2プロヴィンスと200ダカットを得て和平。
これでバルト海に続いて黒海沿岸も完全征服、さらにオスマン帝国もヨーロッパから追放である。

1815/01 - 1816/04
ルーションのためポルトガルへ宣戦布告。また同盟国のカスティーリャ付き。 チャンパなんてどうでも良い国も付いてきた。
ポルトガル・カスティーリャから ルーション・バルセロナ・ビスカヤ・アラゴン の計4プロヴィンスと計800ダカットを得て和平。
これにて征服は完了。

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