ヤロスラフ1世

[ヨーロッパ−中世]

キエフ大公国の大公。 ルーシ法典の編纂などの事跡により「賢公」と呼ばれる。 ウラジーミル聖公の息子として生まれ、 長兄の死後ノヴゴロド公となった。 しかし父のいるキエフに対して税の支払いを拒否し、 公然と反旗を翻した。 父の死により直接対決にはならなかったが、 弟達を殺害して大公となった兄のスヴャトポルクと雌雄を決することとなった。 スヴャトポルクには隣国ポーランドが味方し苦戦させられたが、 ヤロスラフはノヴゴロドの経済力とヴァーリャーグ傭兵を擁し、 さらにスヴャトポルクがポーランドと険悪となったこともあって 最終的に勝利して大公となった。 その後も弟ムスチスラフの反乱などに悩まされたが、 これと和睦した後はルーシ法典の編纂などで内政を固める一方、 内乱中にポーランドに奪われた地域を奪還し、 スウェーデンやハンガリーと姻戚関係を結んで対外関係を安定させた。 さらにソフィア聖堂などを建設してキエフの街を整備し、 文化的にもルーシの地を発展させた。 晩年ビザンツ帝国に対して遠征を行うが、 これは深入りさせずに和平し、 以後キエフ大公国はビザンツ帝国と友好的な関係を維持することとなった。 ヤロスラフの治世はその死まで平穏なものであったが、 その死後再び兄弟の公同士の内乱が発生し、 キエフ大公国は分裂していくことになる。

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