[ヨーロッパ−中世]
ワラキア公でオスマンと戦った英雄。
ツェペシュ (串刺し公) のあだ名を持ち、
吸血鬼ドラキュラのモデルとしても知られる。
ワラキアの貴族 (後にワラキア公になる) ヴラド2世の次男として生まれる。
父2世は皇帝ジギスムントの創設したドラゴン騎士団に加わっており、
竜を意味する「ドラクル」と呼ばれていた。
そのため3世は「ヴラディスラウス=ドラクリヤ」(ドラクリヤは竜の子)
と自ら署名していた。
ちなみに当時のワラキアに苗字は無いため「ヴラド」が本名である。
「ツェペシュ」の方は専ら後年用いられたようである。
ワラキアはハンガリーや東欧諸国と共にオスマン帝国に対抗していたが、
ヴァルナの戦いで破れ、オスマンに臣従した。
ヴラド3世は弟ラドゥと共に人質としてスルタンの下に留め置かれた。
後父と兄ミルチャが敗戦後の混乱の中暗殺された。
対立していたトランシルヴァニア公フニャディ=ヤーノシュが黒幕とも言われている。
フニャディはヴラドの親戚のヴラディスラフを支援しワラキア公としたが、
ヴラドはオスマン帝国の支援を受けてヴラディスラフと争った。
一旦はワラキア公に即位したものの、2ヵ月後にはフニャディに破れ、
オスマン経由で母方の親戚であるモルダヴィア公を頼った。
モルダヴィア公の死後またも亡命する破目になったが、
何と逃亡先に敵であったフニャディを選んだ。
運命の転変は続き、
ヴラディスラフがハンガリーからの独立を目論みフニャディと対立、
ヴラドは今度はフニャディ家の支援を得て再びワラキア公となった。
ワラキア公となったヴラドは大貴族を粛清し、
政治制度も改革して中央集権化及び富国強兵を図った。
オスマンに対しては貢納金が引き上げられたことを切っ掛けに臣従を拒否し、
貢納の催促に来た使者を串刺しにした。
当然オスマン帝国との戦争になったが、
ヴラド率いるワラキア軍は度々勝利した。
この際敵の戦意を削ぐため捕らえた敵兵を悉く串刺しにしたと言われる。
しかしオスマンはヴラドの弟ラドゥを支援し、
ヴラドに反発していた貴族を味方につけヴラドの追い落としに成功する。
追われたヴラドはフニャディ家を頼るが、
ハンガリー王となっていたフニャディの次男マーチャーシュは
ヴラドがオスマンと協力していたとして捕らえ幽閉した。
この際妻が自殺している。
マーチャーシュはオスマンと本気で戦う気が無かったためヴラドを幽閉し、
さらにヴラドの残虐行為を宣伝して自身の行為を正当化した。
この宣伝が後年の吸血鬼ドラキュラの元になったようである。
ただし幽閉と言っても陰惨なものではなく、
ヴラドは正教からカトリックに改宗し、マーチャーシュの妹と再婚し、
監視つきではあるが出歩いたり宴会もしたりとそれなりの暮らしだったようである。
12年後ヴラドは解放され、マーチャーシュの支援で3度ワラキア公となった。
しかしカトリックに改宗していたことで正教徒である住民の支持を失っていた。
間もなくオスマンとの戦争中に戦死した。貴族による暗殺とも言われている。
ヴラドはオスマン帝国と戦い勝利したスカンデルベグ・
フニャディと並ぶ英雄であるとされる。
ただし地元ルーマニアでは大勢いるワラキア公の一人としか見られなかった。
主に西欧ではマーチャーシュによるプロパガンダの影響で悪の権化と見なされ、
後年のドラキュラにより悪役・暴君のイメージが世界中に広まった。
英雄と見られるようになったのは近年のことである。
実際は富国強兵を図り敵に勝利した英雄であると同時に、
串刺しにされた貴族や敵から見れば恐るべき暴君でもあった。
多くの英雄 (或いは人物) と同様、単純に善悪を決められない人物である。