[ヨーロッパ−近世]
フランスの名将で、6人のフランス大元帥の一人。
正式名称はテュレンヌ子爵アンリ=ド=ラ=トゥール=ドーヴェルニュ。
同名の父はブイヨン公・セダン公で、
次男であったため所領の一部であるテュレンヌ子爵領を相続した。
母はオラニエ公ウィレム1世の娘で、家はユグノー貴族であった。
意外にもテュレンヌは虚弱体質で、障害吃音が治らなかった。
それでも身を立てるため軍人を志し、最初は母の縁でオランダ総督マウリッツに仕えた。
マウリッツの跡を継いだフレデリック=ヘンドリックの下で軍歴を重ねたが、
特に母の希望でフランスに帰国してフランス軍に士官し直した。
三十年戦争で並外れた武功を立てて元帥にまでなったが、
熱心なプロテスタントであったため国政を牛耳っていたリシュリューとの関係は微妙であった。
フロンドの乱では最初反乱側に付き亡命したり王党派と戦って敗北したりした。
しかしコンデ公が一旦王党派と和解した後再び反乱した際には従わず、
王軍を率いてコンデ公と戦った。
乱の鎮圧後そのままフランス=スペイン戦争の指揮を取り、
スペインに亡命したコンデ公と度々戦った。
この戦いはスペイン兵の質の悪さもあってテュレンヌが勝利し、
フランスの覇権獲得に貢献した。
戦後ルイ14世が親政を始めると大元帥に任じられ、王軍の最高司令官となった。
また熱心なプロテスタントであったのだが、イギリス清教徒革命の混乱から心境が変わり、
カトリックに改宗した。
ルイ14世の戦争では帰国したコンデ公と共に軍を率い、
オランダやオーストリアと各地で戦った。
最期はモンテクッコリ率いるオーストリア軍との対峙中に大砲の砲撃によって戦死した。
テュレンヌはフランス大元帥の中で唯一大元帥となった後も長く現役を続け、
歴代大元帥の中でも最高クラスの名将と見られている。
また人気もあり、後年ヴィラールの才気を持て余したルイ14世もテュレンヌは信頼し続けた。
戦死した際にはフランスは勿論、敵将モンテクッコリすら
「尊敬してきたあの男が死んだ!」と嘆いたという。
政治の世界では無力であったが、
そのような政治と距離を置いた騎士のような振る舞いが人徳と人気に拍車をかけたようである。
フランス革命期でもテュレンヌの遺骸は特別扱いされ、
ナポレオンも偉大な名将として手本としていた。