[ベトナム・中国−漢]
ベトナム(当時の交阯郡)で起こった反乱の指導者。 ちょうしまい・ハイ=バ=チュンとも呼ばれる。 指導者となった姉は徴側、それを支えた妹は徴弐。 貉将(ベトナムの有力者)の子として生まれ、 有力者に嫁いだ。 反乱を起こした詳細な経緯は不明である(徴税権を巡る諍いが発端と言われる)が、 後世徴側の夫が太守に処刑されたことが発端であるという伝説が作られた。 漢の太守に対する不満が広まっていたこともあって反乱は広まり、 徴側は「徴王」を称して交阯郡の主に農村部を支配下に治めた。 漢の光武帝劉秀はこれを重大な反乱と見做し、 馬援を伏波将軍に任じ反乱鎮圧を命じた。 漢軍は雨期の到来と疫病に苦しめられたが、 徴姉妹も部下達に女と侮られて士気が振るわず、 決着を急ぐ必要に迫られた。 焦った徴姉妹は漢軍に決戦を挑んだが敗れ、 反乱は鎮圧され交阯郡は漢の支配下に戻った。 徴姉妹の最期は川に身を投げた・戦死した・斬首された・病死した・ 雲の中に消えたといった諸説が入り乱れているが、 最初の川に身を投げた説が(真偽はともかく)一般に広まった。 反乱はわずか3年で鎮圧されたが、 徴姉妹は初のベトナム独立運動を率いた英雄として語り継がれていった。
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