徳川家康(とくがわいえやす)

[日本−戦国時代・安土桃山時代・江戸時代]

江戸幕府の創設者。三河の小領主松平広忠の嫡男として生まれる。 幼いころは織田、次いで今川氏の下で人質として過ごし、 小領主の悲哀を味わう。 元服して松平元信、次いで元康と名乗る。 今川義元の配下となっていたが、 桶狭間の戦いで義元が討たれると三河で独立、織田信長と同盟を結び、 名を家康、次いで姓を徳川と改める。 武田信玄とも同盟して今川氏や領内の一向一揆と戦い、 遠江に勢力を広げる。 また、姉川で信長の同盟軍として戦い、勝利に大きく貢献する。 武田信玄の西進の際三方ヶ原で戦うが、 失禁する程の生涯最大の敗戦を味わう。 この時は信玄の死で難を逃れ、 その子勝頼と戦った時は信長とともに長篠で戦い、大勝利を収める。 武田家滅亡の時に駿河をもらい、 信長に礼を述べた後堺を見物中に本能寺の変が起こる。 急ぎ帰国したが、秀吉が先に光秀を討ち、天下取りの機会を逃す。 混乱に乗じて甲斐・信濃を手に入れ、秀吉と対峙するが、 同盟していた織田信雄の独断による和睦と 秀吉の工作でやむなくこれに臣従する。 秀吉が関東の北条氏を滅ぼした後関東に加増転封される。 秀吉の死後謀略で権力を徐々に奪い、政敵石田三成らを関ヶ原で破り、 実権を握り、1603年征夷大将軍となって江戸に幕府を開く。 後息子秀忠に家督を譲り、 自らは大御所としてかつての本拠地駿府で実権を握る。 豊臣家を警戒し、様々な謀略で挑発、2度にわたって大坂で戦い、 豊臣家を滅ぼす。 徳川家の体制を固めて後75歳で没した。
徳川家康は野戦の指揮と謀略に長けていて、慎重な性格であった。 若い時から苦労を重ね、「人生とは重き荷を負いて遠き道を行くが如し」 という言葉を残している。 だが、保守的で身内ばかりを重用する姿勢は、 その後の江戸時代の窮屈な雰囲気を決定付けてしまった。 また、苦労のし過ぎで性格が歪んだかのように、特に大坂の役の前、 あまりにも汚い謀略で、後世の評価を落としている。 また、いわば薬オタクで、薬の調合に凝り、 医者を信用しなかったという。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る