四分統治(しぶんとうち)

[ローマ帝国]

「天性の統治者」ディオクレティアヌス帝の専制君主制と並ぶ重要な政策の1つ。 ラテン語のテトラルケースの日本語訳である。 始め軍人皇帝時代の混乱期に即位したディオクレティアヌス帝は、 低下した皇帝の統治能力で混乱を収めるため、 領土を同僚のマクシミアヌスと分担統治した。 その後自分達より若い世代のコンスタンティウスとガレリウスを起用し、 副帝として帝国を4分割、4人の皇帝による四分統治を完成させた。 ディオクレティアヌスは既にローマが帝国の中心としての機能を失っていることを見抜き、 自分は東端の領土を治め、ニコメディアに都を置いた。 4人の皇帝の領地は以下の通り。

人物名 地位 領地(現在の地名)
ディオクレティアヌス 東の正帝 アナトリア・シリア・パレスティナ・エジプト・キレナイカ
ガレリウス 東の副帝 バルカン半島
マクシミアヌス 西の正帝 イタリア・リビア〜アルジェリアの北アフリカ
コンスタンティウス 西の副帝 ライン川以西のヨーロッパ・モロッコ

この四分統治と専制君主制を柱とする改革により、帝国の混乱は収束に向かった。 無論ディオクレティアヌスが他の3人をよく抑えていたからであるが。 この四分統治により、元々衰えていたローマ帝国の中のローマの影響力はさらに低下、 後の最終的な帝国分裂の大きな引き金となった。 その反面、帝国の完全崩壊を防ぎ、ビザンティン帝国の隆盛のきっかけともなった。 この四分統治が正常に機能したのはディオクレティアヌス およびその次のコンスタンティウスの代までで、 コンスタンティウスの死後帝国は再び内乱の時代に突入した。 内乱を収めたコンスタンティウスの息子コンスタンティヌス大帝の死後、 最終的なローマ帝国分裂の前にも分割統治はしばしば行われたが、 4分割は行われることは無かった。

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