[中央アジア−中世]
ティムール朝の創始者でチンギス=ハーン・アレクサンドロスに次ぐ征服者。
ちなみに「ティムール」という名は「鉄」という意味のありきたりな名前である。
モンゴルのバルラス部の没落貴族の出身で、当初は従者数人という状況だった。
当時チャガタイ=ハン国は遊牧派の東と定住派の西の内部対立で混乱していたが、
ティムールは盗賊の親分をしていたという。
しかし、優れた軍事指導者として頭角を現し、
西チャガタイ=ハン国の有力諸侯の一人となった。
東チャガタイ=ハン国のトゥグルク=ティムールが侵攻してきた際に
これに従属したが、間もなく有力諸侯のフサインと組んで独立し、
内紛を利用してサマルカンドを制圧した。
以後サマルカンドはティムールの本拠地となり、
ティムールはその発展に全力を傾けることとなった。
この頃の戦いで右足を負傷して不自由となり、
「跛者ティムール」 (西欧ではタメルラン) と呼ばれるようになった。
その後覇権を巡ってフサインと対立し、
これを殺害してマーワラーアンナフルの覇権を確立した。
当時の中央アジアではチンギス=ハーンの子孫である「黄金の氏族」
のみがハーンになれるという掟が生きており、
ティムールはソユルガトミシュという三男オゴタイの子孫を傀儡のハーンとし、
フサインの元妻で同じく「黄金の氏族」であるハヌムを妻とし、
自らキュレゲン (女婿) として実権を握った。
これが後世ティムール朝・ティムール帝国と呼ばれる政権である。
ティムールはチンギス=ハーンに憧れ、また敬虔なイスラム教徒であったため、
イスラムによるモンゴル帝国の再現を目指した。
また不安定な内部を繋ぎ止めるため戦利品を必要としていた面もあった。
その後遠征したのはモーグリスタン (東チャガタイ=ハン国) 、
キプチャク=ハン国、旧イル=ハン国であるイラン・コーカサス (黒羊朝)・
メソポタミア (ジャライール朝)、アフガニスタン、インド (トゥグルク朝)、
シリア (ブルジー=マムルーク朝) に及んだ。
要するに周り全部である。
さらにアナトリアでオスマン帝国の「稲妻」バヤジットすら破り、
これを捕虜にした。
その結果勃興途中のオスマン帝国は一時内乱期に突入する。
生涯連戦連勝であったが、最後は明遠征の準備中にオトラルで病没した。
とにかくひたすら戦争三昧の生涯であった。
ティムールは戦争に関してはチンギス=ハーンに匹敵する天才で、
彼の率いる騎兵を主体とした軍はほとんど負け知らずであった。
周辺が混乱期で彼の帝国に匹敵する大勢力が
遥か離れた明しか無かったことが幸いしたのも
チンギス=ハーンに似ていると言えよう。
また、本拠地サマルカンドの発展に力を注ぎ、
後のトルコ=イスラーム文化発展の基盤を築いた。
地元では「チンギス=ハーンは破壊し、ティムールは建設した」
と言われるほどである。
反面、占領地の統治には無頓着で、遠征先では略奪や虐殺も容赦なく行った。
また、独特の統治方式はティムールのようなカリスマが必要であり、
ティムールや事実上の後継者のシャー=ルフの死後
比較的短期間で没落することとなった。
また、彼の征服事業の大半は自分自身で率いており、
チンギス=ハーンのジェベやムカリに相当する将はティムールには見当たらない。
占領地の統治は主に息子たちにやらせていたが、
特筆すべき人物はシャー=ルフくらいしかいなかった。
以上から戦争ではチンギス=ハーンに勝るとも劣らないが、
(サマルカンドを除き) 政治では及ばなかったと言えるのではなかろうか。