タンネンベルクの戦い(タンネンベルクのたたかい)

[ヨーロッパ−中世・近代]

  1. ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団の間の戦い。 ポーランドではグルンヴァルトの戦いと呼ばれる。 ドイツ騎士団はバルト海沿岸のキリスト教化を名目に植民活動を推進する団体であったが、 リトアニアがポーランドと連合した上でキリスト教化したことで大義名分が危うくなった。 ジェマイティア(サモギティア)の領土紛争を切っ掛けに両者は戦争状態となったが、 ドイツ騎士団には外国人ヨガイラの王位に反対するピャスト家の諸侯が味方し、 ポーランド側には騎士団と対立していた諸都市のドイツ系商工業者が味方した。 ポーランド側は朝のミサのため布陣が遅れたが、 ドイツ騎士団はその隙を突くことはしなかったため、 戦いは正午に始まった。 戦いが始まるとリトアニアのタタール人軽騎兵が 偽装撤退によってドイツ騎士団を沼沢地に誘い込み、 混乱した敵軍に総攻撃し、 最期に後世にもその名を轟かせるポーランド重騎兵によって壊滅させた。 この戦いによってドイツ騎士団は団長ユンキンゲンが戦死するなど大敗した。 ポーランドはその後マリボルク城を攻めあぐねたためトルンの和約を結び、 ドブジン・ジェマイティアを割譲させた。 領土の変更はそれ程多くは無かったが、軍の壊滅と諸都市の離反のダメージは大きく、 ドイツ騎士団の臣従化、ポーランド躍進の切っ掛けとなった。
  2. 第1次世界大戦でのドイツとロシアの間の戦い。 実際の戦いはタンネンベルク近くのオルシュテイン付近であったが、 上記タンネンベルクの戦いに因んで名付けられた。 ドイツは開戦後主力を西部戦線へと向け、 決着がつくまでロシア相手は第8軍によって防衛する計画を立てていた。 これに対しロシア軍は第1軍・第2軍、合わせてドイツの2倍以上の兵力を差し向けた。 これに恐れをなした第8軍司令官プリットヴィッツは 撤退し東プロイセンを放棄しようとしたため解任され、 後任の司令官にヒンデンブルク(後の大統領)、参謀長にルーデンドルフが任命された。 一方ロシア軍は兵力優勢であったが、 第1軍司令官レンネンカンプと第2軍司令官サムソノフは 日露戦争の奉天会戦の敗戦後取っ組み合いの喧嘩をしたという噂が立つ程不仲であり、 両軍の連携は取れていなかった。 さらに技術的問題から暗号を使わずに無線通信していたため、 その行動はドイツ軍に筒抜けであった。 ドイツ軍参謀のマックス=ホフマンはこの点を突いて各個撃破する作戦を提案し、 第1軍を足止めしている間に第2軍を包囲殲滅することとした。 ドイツ軍は鉄道輸送によって速やかに包囲網を完成させ、 予定通り砲撃によって第2軍を壊滅させサムソノフを自殺に追い込んだ。 その間第1軍は為す術なく撤退に追い込まれ、 ドイツ軍は2倍以上の兵力の撃退に成功した。 この勝利によりヒンデンブルク・ルーデンドルフは名を上げ、 後のルーデンドルフ独裁、ヒンデンブルク大統領の布石となった。

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