タレーラン=ペリゴール

[ヨーロッパ−近代]

フランス革命期・ナポレオン帝政期・王政復古期の政治家。 フルネームはシャルル-モーリス=ド=タレーラン-ペリゴール。 長期に亘って政権の中枢に居続けた辣腕の士である。 名門軍人貴族の出身であるが、 生まれつき足に障碍があったため軍人とはならず聖職者になった。 三部会が招集されると第一身分の聖職者代表議員となり、 第一身分でありながら改革派議員として活動した。 メートル法の制定を発案したと言われ、 他にも教会財産の国有化を推進したりした。 そのためローマ教皇から破門を言い渡された。 外交官としてイギリスに派遣されたが、 ジャコバン派による恐怖政治の難を避けそのまま亡命し、 アメリカに渡った。 恐怖政治の終焉後に帰国し、総裁政府の外務大臣となった。 ブリュメールのクーデターではナポレオンに付き、 統領政府で再び外務大臣となり、 リュネヴィルの和約・アミアンの和約を成立させてナポレオンに評価された。 ナポレオンが皇帝になると侍従長も兼任したが、 列強の勢力均衡を図るタレーランは大陸制覇を目指すナポレオンと対立し、 外相を辞任した。 ナポレオンが失脚して王政復古が成ると再度外相となり、 ウィーン会議にフランス代表として参加し、 敗戦国であるフランスの革命以前の権益を守り通すことに成功した。 ナポレオンの百日天下の後首相になるが、 革命期の活動を非難されて短期間で辞任した。 その後7月革命ではルイ=フィリップの即位に貢献し、 イギリス大使を務めた後隠居、病死した。
タレーランは辣腕の政治家で、 激動の時代常に勝ち組に付いて政権の要職に居続け、 また外交官としてナポレオン敗戦後のフランスの権益を守り通すことに成功した。 一方勝ち組に付くということは裏切りも多いということで、 ナポレオンには「絹の靴下の中の汚物」と酷評された。 タレーランもナポレオンを危険な陰謀家と見做し、 またルイ18世のことも軽蔑しており、 挙句自分は他人を見下しているとの言葉まで残してしまった。 有能ではあるがとんでもない曲者である。

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