武田信玄(たけだしんげん)

[日本−戦国時代]

最強の戦国大名と言われる。出家前の俗名は晴信。 甲斐源氏である武田氏の嫡男として生まれる。 父信虎と不仲になったが、父を追放して当主となる。 以後、甲斐から信濃に勢力をのばし、北信濃で上杉謙信と戦う。 さらに西上野・駿河と勢力を伸ばし、上洛して天下取りを狙うが、 陣中において53歳で病没する。
武田二十四将を始めとする優秀な家臣団を率い、 配下の騎馬隊は謙信の越後兵とともに日本最強と言われた。 孫子の兵法を好み、その一部をとっていわゆる風林火山の旗印を用いた。 また謀略や内政にも優れ、山梨県では今でも最高の英雄である。 しかし、今川氏と対立する際、反対した息子義信を自殺に追い込むなど、 冷酷な面もあった。 また、信長に比べると旧い人間で、鉄砲をあまり重視せず、 配下の兵も半農半兵で、長期戦は出来なかった。 最後の上洛戦も実は京まで上る力は無く、 東海地方の制圧のみが目的であったとする説もある。
もし信玄がもう少し長生きしていたら、信長との戦いはどうなっていたか、 良く論じられている。 信玄の兵は日本最強と言われ、また一向衆などの味方が多かった。 しかしその兵は半農半兵で、長期戦は出来ない。 また、信長は畿内の大部分を抑え、動員兵力は信長の方が多かった。 だが、一向衆と武田、それに浅井朝倉が同時に攻撃したら、 信長の覇権も危うかったのではないだろうか。

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