周瑜(しゅうゆ)

[中国−後漢末]

後漢末の武将。字は公瑾。 江南の孫家に仕え後に呉となる勢力を築いた立役者である。 廬江郡の名門出身の美男子で「周郎(周家の若様)」と呼ばれていた。 孫堅が反董卓連合に参加した際にその息子孫策と面会し、 意気投合して親交を結んだ。 孫堅の戦死によって雌伏を余儀なくされたが、 孫策が自立を目指して兵を挙げると兵を率いてこれに従い、 功績を立てて配下の中でも破格の待遇を受けた。 また喬公の娘二人を捕虜にして孫策が姉の大喬、 周瑜が妹の小喬を娶り、主君の義兄弟となった。 孫策の死後その弟の孫権に仕え、 張昭と共に諸務を取り仕切った。 また親交のあった魯粛を推挙し陣営の強化を図った。 曹操が荊州を制圧すると陣営内では降伏するか否かで論争が起き、 相手が強大であることから降伏論が多数を占めていた。 周瑜は[番β]陽に赴いていたが魯粛に呼ばれて帰還し、 魯粛と共に抗戦を主張し孫権にこれを認められた。 周瑜は程普と共に司令官に任じられて3万の兵を率い、 曹操から逃れていた劉備と合流した。 劉備は周瑜の率いる兵が少ないのを見て危ぶみ動かなかったが、 周瑜は赤壁にて曹操の大軍を攻撃し、焼き討ちによって勝利した。 さらに余勢をかって荊州に攻め込み、 自身流れ矢で重傷を負いながら曹仁が守る要衝江陵を攻め落とした。 その後曹操が体勢を立て直す間に益州を攻略する計画を立てたが、 傷が悪化し周瑜は死去した。 その後は魯粛が後継となり、荊州の劉備と共闘路線に転向し益州攻略も白紙となった。
周瑜は孫策・孫権を支え、特に赤壁の勝利によってその基盤を確立した立役者である。 正史に「美男」とはっきり書かれるほどの美男であり (三国志で他に美形との言及があるのは魏の曹叡のみ)、 宴会中酔っているときですら演奏の間違いに気付くほど音楽に精通していた。 宿将の程普が若くして破格の待遇を受ける周瑜を嫌っていたが、 周瑜が膝を曲げ遜って接したため遂に程普を感服させるに至ったという。 また孫権が跡を継いだ時若く実績が無かったため軽んじる者もいたが、 周瑜が率先して臣下の礼を取ったため周囲もそれに倣うようになった。 これらのことから人望があり、正に孫権陣営の大黒柱であった。 なお周瑜は天下を狙うよう活動していたが、 魯粛以降の後継者は専ら勢力の保持を第一に戦略を立てるようになり、 呂蒙の荊州攻略以外には大規模な攻勢を行わなくなった。 政権の延命としては正しかったのであろうが、 周瑜の死によって孫家は三国志の主役から脱落したとも言えなくもない。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る