[中国−明]
明の成祖永楽帝。明の最盛期を築いた皇帝。
太祖朱元璋の4男として生まれる。
若い頃から利発で、朱元璋も自分の後継者にしようとしたが、
儒者の反対で諦めた。
燕王となって北方遊牧民族に対する防衛の最前線で指揮をとった。
父が死ぬと早世した兄に代わって甥(恵帝)が即位したが、
強大な叔父達の権力を削ごうとしたため朱[木隶]は反発し、
反乱を起こした(靖難の変)。
結果朱[木隶]が勝利し、皇帝となった。
しかし、恵帝は行方不明となったため、
朱[木隶]はそれ以降もその存在を怖れ続けた。
宦官の鄭和を提督とした大船団を南海へ派遣するが、
それも恵帝を探すためだったと言われる。
恵帝は見つからなかったが、この事業によって通商は盛んとなり、
明の国威は大いに上がった。
また、北の遊牧民族に対しては積極的に外征をして、国土を広げた。
しかし、靖難の変で宦官の内通が勝利につながったことから宦官を重用し、
後の明の衰退の原因をつくった。
また、恵帝に対して反乱を起こした後ろめたさのためか、
都を自分の燕王時代からの本拠地である北京に移している。
彼の死後、早くも明の衰退が始まる。
朱[木隶]は英邁な君主であり、
おそらく平和な時代の皇帝としては父の朱元璋以上であろう。
しかし、結局生涯恵帝の呪縛から逃れることは出来なかった。
果して彼は皇帝になるべきであったのだろうか。
それにしても、僅か3代で最盛期を迎え、
後300年も衰退期の続く明とは・・・・・・。