[中国−明]
明の太祖洪武帝。貧農の生まれであり、元の混乱期と重なった若い頃は、
食うに困って乞食坊主までした。
おそらく世界中の帝王の中では一番悲惨な体験をした人だろう。
元に対して紅巾の乱が起こると、朱元璋は頭目の一人郭子興の軍に加わる。
やがて頭角を現わした朱元璋は、郭子興の娘婿となり、
さらに郭子興の死後は事実上の跡取りとなった。
徐達や李善長・劉基といった有能な部下も手に入れ、
陳友諒や張士誠といったライバルも倒し、江南の覇者となった。
この頃に紅巾を捨てて地主階級を味方にし、
呉王となって国家の体裁を整えた。
やがて華北を平定してモンゴルを草原へ追い返し、
明を建国してその皇帝となった。
皇帝となった朱元璋は、建国の功臣達を次々と粛正し、
自分の息子達を王にして各地へ派遣した。
また、不正を働いた役人をあらゆる方法で殺戮し、
彼の生涯でその数は10万人に達するという。
こうして皇帝の独裁による国内統治の体制を固めたが、
この体制は彼の死後僅か数年にして
4男で燕王の朱[木隶](永楽帝)によって破られた。
朱元璋は劉邦以上に卑賎から身を起こし、
大帝国の皇帝となった英雄である。
しかし、建国の後功臣を次々と粛正してしまったため、
燕王の反乱の際若い皇帝を助ける将がいなかった。
身内以外を信用しなかったことが仇となったのである。
或いは権力者が自分の子孫なら誰が取って替わっても良い
とでも思ったのだろうか。
何れにしろ英雄にしては間抜けなことである。
また、彼は役人の不正を正すために厳罰を以ってした。
10万人の役人が凌遅・抽腸・剥皮といった残虐な方法で処刑された
(これらの方法の詳細はここでは触れないが、
中世ヨーロッパや日本に劣らない残酷さなのは確かである)。
しかし、それでも役人の不正は直らなかった。
現代でもそうだが、東洋の役人の汚職の根は深い。