諸葛孔明(しょかつこうめい)

[中国−後漢末・三国]

三国時代蜀漢の名政治家。一般には最高の軍師として有名である。 名は亮で孔明は字。瑯邪郡陽都県出身。 幼い頃父が死に、戦乱に見舞われたため荊州のおじ諸葛玄の下で育った。 一説にはこの戦乱は曹操の徐州攻略が関わっていたという。 兄の瑾は孫権に仕えていたが、おじの死後も孔明は仕官せず、 弟と共に荊州で晴耕雨読の生活をしていた。 当時の荊州には多くの学者が集まりサロンのようなものができていて、 孔明もそこに出入りしており、 水鏡先生こと司馬徽に伏竜或いは臥竜と呼ばれ、 鳳雛ことホウ統と共に評価されていた。 自らを管仲・楽毅に比し、晏嬰を称えた梁父吟を愛したという。 しかし劉備に三顧の礼で迎えられると、 これに応えて天下三分の計を示した。 物語では天才軍師として縦横無尽の働きをするが、 実際の孔明は主に内政を担当していた。 軍師として謀を担当したのは鳳雛ホウ統、その死後は法正である。 劉備の死後後事を託されたが、 その頃すでに法正まで亡くなっていたのが孔明の悲劇であった。 跡継ぎの劉禅は苦労人の父と違い坊ちゃん育ちで頼りにならず、 丞相孔明は一人で蜀漢の命運を背負うこととなった。 まず手始めに反乱を起こした南方の少数民族を帰服させた。 ここで自分の戦闘指揮の訓練をし、 また少数民族を心服させて後顧の憂いを絶った。 その後劉禅に有名な出師の表を捧げ、魏を討つべく北伐に出陣する。 しかし、最初の北伐では孟達が司馬仲達の速攻で敗れたことと、 抜擢した馬謖の命令違反によって失敗に終わる。 綱紀粛正のため涙を飲んで馬謖を処刑し、自身の位も下げて再起を図った。 以後何度も出征するが、 決定的な戦果を得られないまま234年五丈原の陣中で没した。 享年54歳。
基本的に実際の孔明は蕭何のような偉大な政治家であり、 張良のような軍師ではない。 本来軍師の仕事はホウ統や法正が担当するはずであった。 しかし不幸にも2人とも早くに亡くなり、代わりの人材もいなかった。 そのため劉備の死後孔明に過剰な負担がかかることとなった。 ライバルとされる司馬仲達とは、本来の性格が違うのである。 さらに、魏の明帝曹叡に比べ蜀漢の劉禅は頼りにならないばかりか、 足を引っ張ることさえした。 さらに蜀漢は魏に比べると国力は圧倒的に劣る。 これだけ不利な条件を抱えながら、劉備の恩に報いるため、 己の理想のため、身を削って仲達と互角の戦いをしたのである。 君主向きの性格ではなくて、部下をうまく使うことに慣れず、 最後は過労死してしまった。 ある蜀の人は後に、 「丞相様は御健在の頃はあまり感じなかったが、 亡くなってみるとその偉大さがわかった」と言った。 孔明が民間で人気を集め、後世大いに称えられたのも当然と言えよう。
孔明の北伐は可能であったか、よく議論されている。 蜀漢は国力で魏に劣り、山がちの地形は遠征の補給に不利であった。 また、孔明自身自分が韓信のような大戦術家でないことは 十分分かっていたはずである。 おそらく中原回復は不可能だと思っていただろう。 その目的は1つは国威を発揚して国内をまとめること (三国時代はどの国も国内の権力基盤が弱かった)、 もう1つは戦場を国外にして領内の安全を図ることである。 補給に苦しみ、運搬道具を次々と発明しても国力の消耗は避け難かったが、 最後には屯田兵で魏の領土に居座ろうと考えていたのではないだろうか。 魏の国内事情も考えれば、領土保全にはなかなかの策だとも思われるが、 実際はどうであろうか。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る