スレイマン1世

[オスマン帝国]

オスマン帝国の第10代の君主。 帝国の法典を編纂し制度を定めたことから 「立法者 (カヌーニー)」と呼ばれた。 また帝国の最盛期を築いたため、欧米では「壮麗者」、 日本では「大帝」とも呼ばれる。 父「冷酷者」セリムの征服によって超大国となった帝国を受け継いだスレイマンは、 引き続き征服を継続して帝国をさらに拡大させた。 即位後間もなく聖ヨハネ騎士団のロードス島などを征服し、 またハンガリーを完全征服した。 また攻略はできなかったもののオーストリアの中心都市ウィーンを包囲し、 西欧諸国に強い衝撃を与えた。 さらにイランのサファヴィー朝とも戦ってアゼルバイジャン・イラクを制圧して 東の国境を安定させた。 また北アフリカのバルバリア海賊の首領であるバルバロス=ハイレディンを帰順させ、 スペイン・ヴェネツィア・教皇連合をプレヴェザの海戦で破り、 地中海の制海権を獲得した。 さらにスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世 (カルロス1世) に対抗してフランスと同盟し、 またこの頃出現したルター派も密かに援助してカール5世を牽制した。 これら征服事業と平行して国内制度も整備し、 官僚制とイェニチェリを中核とする軍事機構により 当時最も先進的な中央集権制を確立した。 また自身歴代のスルタンのように詩や哲学を修め、 ミマール=スィナンを登用してスレイマニエ=モスクを始めとする 優れた建造物も作らせるなど文化的にも業績を残した。 このようにスレイマンの治世は長い共に帝国の最盛期であったが、 治世の後半には没落の兆しが現れ始めた。 后の中から奴隷出身のヒュッレム=スルタン (ロクセラーナ) を寵愛し、 野心的は彼女の策謀で息子達の間で後継者争いを起こしてしまった。 その結果大宰相イブラヒムや皇子ムスタファ・バヤジットを処刑し、 後世に汚名を残した。 この争いの結果後継者は「泥酔者」と呼ばれた無能なセリム (2世) となってしまった。 のみならず君主自身は政務も軍の陣頭指揮も行わず、 後宮の女性が政治に介入するという悪しき伝統も生まれてしまった。
スレイマンとはソロモンのトルコ語読みであるが、 ユダヤのソロモン同様全盛期の王ではあったが、 これまたソロモン同様後の凋落の原因も作ってしまった。 最盛期のスルタン故後世理想化されたが、 上りきったら後は下がるしかないことを考えると、 最盛期の君主というのは「理想的」とまでは言い難いのかもしれない。

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