ストーンウォール=ジャクソン

[北米−近代]

アメリカの軍人。 本名はトーマス=ジョナサン=ジャクソンだが、 第一次ブルランの戦いでの活躍ぶりから 「ストーンウォール(石の壁)」のあだ名で呼ばれた。 南軍のリーの片腕として戦死するまで有名を馳せた。 バージニア州で弁護士の子として生まれたが、 幼い頃両親が相次いで病死し孤児となり、 父方の叔父のカミンズに引き取られ厳しく育てられた。 ちなみにこの時期に焚きつけ用の薪と交換で黒人奴隷に読み書きを教えていた。 当時のバージニア州法で奴隷への教育は違法行為であったが、 ジャクソンは約束を優先していた。 その後陸軍士官学校に入学し、 田舎で勉学環境に恵まれなかったこともあって苦戦したが、 卒業する頃には挽回し上位成績になっていた。 卒業後は砲兵連隊に所属し、 米墨戦争に参戦して果敢な戦いぶりで2度の名誉昇進を果たした。 その後バージニア軍学校で自然哲学(数学)と砲兵術の教官となったが、 仕事の合間に黒人向けの日曜学校の手伝いをしていた。 南北戦争が勃発するとリーらと同様故郷のある南軍に加わり、 新兵の指導役を経て旅団長となった。 北軍が侵攻してきた第一次ブルランの戦いで ジャクソン旅団は頑強な抵抗を行い、 その戦いぶりからジャクソンは「ストーンウォール」と呼ばれるようになった。 その後昇進して率いる兵が増えたジャクソンは勇戦を続け、 リーの配下となるとその右腕として南軍の善戦に貢献した。 最期の戦いとなるチャンセラーズヴィルの戦いでは 兵力劣勢ながら大胆な攻撃を成功させ勝利したが、 友軍の誤射によって負傷し、合併症(肺炎)によって死去した。 知らせを受けたリーは「私は右腕を失った」とその死を嘆いた。
ジャクソンは上官のリーと共に南軍最高の名将と評価されている。 ジャクソンの死後彼の代わりが務まる将が居なかったことに加え、 戦略的不利が顕在化して南軍が勝てなくなったことで、 ジャクソンの指揮官としての評価が余計に高まることになった。 リー同様南北戦争では故郷に従って南軍に加わったが、 黒人の勉学を支援したことがあるなど 人種差別的思想はほとんど持っていなかった。

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