スタニスワフ2世

[ヨーロッパ−近世]

最期のポーランド王。 啓蒙主義者の貴族ポニャトフスキ伯爵の子として生まれ、 伯父が名門公爵であったこともあり若くして国会(セイム)議員となった。 公使としてロシアに入り、後に女帝となるエカチェリーナ2世に気に入られ愛人となっていた。 そのためポーランド王アウグスト3世が没したときには、 即位していたエカチェリーナ2世の元愛人ということでロシアの後ろ盾もあり、 選挙でポーランド王に選ばれた。 選出後はポーランドの改革に着手したが、 公爵の伯父の反対したこともあって頓挫した。 この頃にはポーランドは弱体化しロシア帝国の保護国にまでなったが、 それに反抗する貴族はバール連盟を結成し、 フランスやオスマン帝国の後ろ盾でスタニスワフに対抗した。 これに対抗するため、スタニスワフはロシアを頼ったが、 その結果ロシア主導でオーストリアとプロイセンを巻き込んだポーランド分割を招いてしまった。 スタニスワフはこの分割は止められなかったが、 領土削減によって削られた国力を回復させるため、 立憲君主制による復興を目指して5月3日憲法を制定した。 しかし改革に反対する貴族がタルゴヴィツァ連盟を結成し、 これをロシアが支援したため、スタニスワフは屈服させられた。 その結果残った領土も分割され、ポーランドは消滅してしまった。 スタニスワフはサンクトペテルブルクに移され、 残った余生を軟禁状態で過ごした。
スタニスワフ自身は無能な暗君ではなかったが、 既に弱体化していたポーランドでは並大抵の才能では滅亡を免れることはできなかった。 コシチュシュコや甥のポニャトフスキ公爵が奮戦している最中に敵に屈服してしまうなど 意思の強い英雄とは言えなかったが、 初の近代的成文憲法である5月3日憲法の制定、エリート養成のための騎士学校の創設など、 先進的な政策を実施した優れた政治家であった。
生まれる時代を間違えた悲劇の名君かもしれない。

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