曹操(そうそう)

[中国−後漢末]

後漢末の英雄で、魏の武帝。字は孟徳で、沛国[言焦]県の出身。 宦官曹騰の養子曹嵩の子であり、 このことにコンプレックスを持っていたようである。 手の付けられない悪ガキであったが、 「治世の能臣、乱世の奸雄」と評される喰えない人物であった。 後漢の朝廷で出世し、董卓征伐の時には諸侯の一員となっていた。 その後黄巾賊の残党を配下に収め、 また身内や優秀な人材を集めて力をつけ、 ライバルの袁術・呂布・袁紹らを次々と倒す。 また長安を脱出した献帝を迎えて丞相となり、実権を握った。 さらに天下統一を狙うが、赤壁の戦いで孫権・劉備に敗れ、機会を逃す。 その後西方に勢力を伸ばすが、 孫権と劉備の勢力を打倒することは出来なかった。 魏公・魏王となり帝位も目前であったが、 それも果たすことなく220年66歳で死去した。 死後皇帝となった息子曹丕から武帝と謚された。
曹操は孫子に注釈を加えて後世評価されるほどの戦略家・戦術家であり、 詩の才能もあった。 また屯田兵によって食料の増産をはかるなど政治家としても一流である。 さらに優秀な人材を使いこなし、その意見も良く聞いた。 この時代最大の英雄である。 しかし、彼は最大の勢力を築いたが、天下を統一することは出来なかった。 孫権・劉備という強力なライバルを叩き潰すことが出来なかったのである。 曹操は確かに有能であるが、それ故部下にとって仕え難い人間であった。 織田信長に比べればまだ部下の進言を聞いたが、やはりオッカナイ。 実際彼が殺した部下も多かった。 実力を重視して無能な者は容赦無く切り捨てたし、 有能な者でも意見が衝突すると容赦が無かった。 荀イクがその良い例であろう。 戦略や戦術はたいしたことがないが、 部下を引きつける劉備とは対照的である。 例えば関羽が曹操の部下となり続けたとしても、 劉備と違って親しむことは出来なかっただろうし、 孔明が部下になったらいずれ意見が衝突して対立しただろう。 この自分に無いものを持つ劉備のせいで、天下を取り損なったともいえる。 上司が有能ならばなお一層部下への気配りが大切ということか。
曹操は宦官の孫で外見が貧相であることに コンプレックスを持っていたようである。 冷酷な面もあったが、優秀な彼の部下は彼の優れた才能に感服していた。 信長と同様評価の分かれる人物だが、その方が見ていて面白いし、 私も好きである。

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