[ヨーロッパ−近代]
フランス第一帝政の元帥で、6人のフランス大元帥の一人。
公証人の子として南フランスで生まれたが、
幼くして父を亡くし経済的に厳しい状況で育った。
長じて軍隊に入隊し、能力を認められ軍曹に昇進したが、
退役し故郷でパン屋を営んだ。
だがこれも長続きせずまた軍に戻った。
革命勃発後はすぐに将校に抜擢され、さらに将官にまで出世した。
ナポレオンがイタリア方面軍司令官となる前にイタリアで師団長を務めていたが、
オーストリア軍との戦闘で負傷し捕虜となっていたため、
ナポレオンの下で戦ったのは第2次イタリア遠征より後となった。
それでも指揮や部下の訓練でナポレオンに認められ、
ナポレオン皇帝即位時には元帥の一人に選ばれた。
その後は第4軍団を率いて各地を転戦し、
特にアウステルリッツの戦いではナポレオンから
「ヨーロッパで最も優れた戦術家」と言われるほどの功績を挙げ、
その戦功によりダルマティア公爵となった。
しかしスペイン戦役では同僚の取りまとめに失敗し、
また配下の略奪ぶりが酷く評価を大きく下げることになった。
その後も各地で戦うもののロシア遠征失敗以降ナポレオン軍自体が劣勢となり、
スールトもトゥールーズでイギリス軍に包囲されている中でナポレオンが退位した。
王政復古後は戦争大臣となったが、ナポレオンが復帰するとその下に戻り、
自殺したベルティエの後任の参謀総長となった。
しかし参謀総長としては不手際が目立ち、
特に伝令を一人しか送らずに連絡に失敗し、ナポレオンに
「ベルティエなら1ダースの伝令を出しただろう」
と嘆かれたことは有名になってしまった。
結果としてナポレオンはワーテルローの戦いで敗北して流刑となり、
スールトも冷遇された。
しかし7月革命では革命を支持し、王となったルイ=フィリップに重用されて再び戦争大臣となった。
戦争大臣としては手腕を振るって軍の再建に努め、フランス外人部隊を創設した。
その後は首相を務め、さらにフランス大元帥の地位まで与えられ、
栄達を極めたまま死去した。
スールトは優れた戦術家で部下の育成や組織運用などにも手腕を発揮したが、
他の多くのナポレオン配下と同じく戦略や統率など一軍を率いる能力には欠けていた。
性格は冷静沈着ではあるものの金や名声に貪欲な俗物で、
特にスペイン戦線での略奪ぶりは悪名高く敵将だったウェリントン公も「マッセナ以下」と断じている。
だがナポレオン配下の中ではスウェーデン王となったベルナドットを除くと、
フランス大元帥となったスールトが最も栄達した。
運と世渡りの才覚には恵まれていたようである。