[中国−新・漢]
新末の動乱期の群雄の一人。劉「揚」と表記された史書もある。 前漢景帝の末裔で、父の死後跡を継いで真定王となった。 しかし王莽が新を建国すると真定公に格下げとなり、翌年それも廃された。 更始帝が政権を取り王郎が天子を自称するとこれに組し、 十万以上と号する軍勢を集めた。 しかし河北平定を目指す劉秀が劉植を使者として送り説得するとこれに応じ、 姪の郭聖通を劉秀と政略結婚させて同盟を結んだ。 劉秀が河北を平定し光武帝として即位すると真定王に返り咲いたが、 劉楊は満足せず自身も皇帝になることを目論み、 「瘤のある楊(劉楊のこと)が主となる」という予言書を捏造して広め、 賊と連携を図った。 劉秀は事実確認のため洛陽へ赴くよう使者を送ったが、 劉楊は城門を閉ざし使者を追い払った。 そこで劉秀は劉楊の親戚である耿純(雲台二十八将13位)に劉楊の捕縛の密命を与えて送り出した。 耿純は各地の領主を慰問しながら情報を集め(おそらく捕縛を諦めて処断の決意を固め)、 使者と合流して真定の伝舎に入った。 劉楊は警戒したが、親戚の耿純にだけは会うことにし、 親族と数万の兵を伴って伝舎を訪れた。 最初劉楊と属官が耿純に会うと恭しく応対したため、 安堵した劉楊は親族も招き入れた。 すると耿純は伝舎の門を閉ざし、劉楊一味を残らず誅殺して真定をそのまま平定した。 劉秀は実際には謀反は未遂であったことを酌量し、 劉楊の子の劉得を真定王とした。
見出しのページに戻る