[中国−春秋・戦国時代〜秦]
戦国時代を終わらせた専制君主。名はエイ政。
趙で生まれ、暫く人質として暮らす。
父荘襄王子楚の死後13歳で秦王となり、呂不韋を宰相とした。
しかし、史記秦始皇本紀では王の子だが、
呂不韋列伝によると政は呂不韋の子であり、こちらが本当らしい。
母が呂不韋と密通し、
恐れた呂不韋が代わりに与えた男ロウアイが権勢を振るったが、
成人するとこのロウアイを殺し、呂不韋も流罪にして自害に追い込んだ。
このことが彼の人格形成に大きく関わったといわれる。
法家思想に共鳴し、韓を脅して韓非子を招いたが、
先に仕えていた李斯の讒言で自害させてしまう。
李斯を登用して法による支配体制を整える一方、他国を策略で弱体化させ、
配下の将軍を派遣して諸国を平定、遂に在位26年目に天下を統一する。
この時三皇五帝から皇帝の称号を編み出し、自ら始皇帝を名乗った。
法家思想に則り、全国を郡県制で役人を使った政府の直轄地とした。
また秦の厳しい法律を全国で適用した。
度量衡や貨幣・文字を統一し、後の中華文化圏を形成した。
また焚書坑儒と呼ばれる思想の弾圧を行い、
また万里の長城や阿房宮・馳道などの大規模な土木工事を行い、
また南北の辺境に遠征した。
それらのことが亡国の貴族だけでなく民衆の恨みをかった。
また全国に築いた道路網を用いて各地を巡遊した。
本来合理主義者であったが、後年不老不死を求めるようになり、
イカサマの方士に度々騙された。
天下統一の11年目に巡遊先で死去する。
長男扶蘇を後継者に指名したが、宦官趙高の陰謀により、
末子胡亥が即位した。その後5年目に秦は滅亡する。
始皇帝は豪気果断な英雄であり、
彼の強力な統一政策によって中華文化圏が生まれ、
後の中華帝国の生まれる源となった。
いわば中国を創った人物である。
しかしその性急な統一政策、過酷な法の運用、
大規模な土木工事による民力の疲弊によって多くの者の恨みをかった。
歴史に名を残す稀代の暴君でもある。
彼の場合、1代であらゆる事をやり過ぎようとしたことが、
その失敗の原因ではないだろうか。
万里の長城も道路網も必要であり有用であるからつくったものである。
しかし、それを急いでつくらせたため、民衆を疲弊させたのである。
法の運用も、後から見るともう少し加減が出来なかったのかとも思えるが、
当時は秦以外の地では新しい方法の模索の意味もあったのだろう。
始皇帝の場合、批判する人間がいなかったこともその暴走に拍車をかけた。
ただ1人苦言を言った長男扶蘇は流罪同然となった。
これによって独善的になったのか、
それとも実は彼自身道を見失ったのであろうか。
後継者に扶蘇を指名したのは、能力を重視したのか、
それとも死の間際に目が覚めたのだろうか。
しかし、この過激な人間のおかげで今の中国があるのもまた事実である。
ローマ帝国の基礎を築いたオクタヴィアヌスは
もっと大らかな方法で国家制度を築いたため、
ローマは長持ちしたが、
その分裂の後再び地中海周辺が統一されることは無かった。
どちらが良かったのかは何とも言えないのだが。
この始皇帝、日本の織田信長に似ている。
豪気果断で先進的なこと、独断的で孤高の専制君主あること、
戦争を専ら部下に任せたこと、少し自らの神格化に走ったことなどである。
もし信長が天下を統一したら始皇帝のようになったのであろうか。
あまり想像したくはない。