[ヨーロッパ−中世]
ルクセンブルク朝の神聖ローマ帝国皇帝・ハンガリー王・ボヘミア王・
ブランデンブルク選帝侯・ルクセンブルク公。
ハンガリー王としてはジグモンド、ボヘミア王としてはジクムント。
名君カール4世の息子でヴェンツェルの弟だが、
父とは異なり暗君として歴史に名を残した。
父の政策でハンガリー女王マーリアと結婚し、
自身ハンガリー王となった。
当時のハンガリーはオスマン帝国の侵攻に悩まされており、
諸侯を集めて十字軍を結成したが、
オスマン帝国のスルタン「稲妻」バヤジットにニコポリスで大敗した。
これによりジギスムントの権威は地に堕ちた。
ちなみにこの後王やキリスト教を守るためドラゴン騎士団を設立した。
(有名な串刺し公の父ヴラド2世はこれに加わり「ドラクル」と呼ばれた。)
後皇帝ループレヒトが死去し、ジギスムントはドイツ諸侯からドイツ王に選出された。
当時ローマ教会は内部対立から分裂していたが、
コンスタンツ公会議を開いてローマ教会の再統一を果たした。
しかし、このときボヘミアの改革者で人望厚いヤン=フスを処刑してしまった。
兄ヴェンツェルの死後ボヘミア王となったが、
これが民衆の怒りを招き、フス戦争へと突入した。
ジギスムントは武力で反乱を鎮圧しようとしたが、
フス派の中の急進派ターボル派とその指導者ヤン=ジシュカに連戦連敗し、
ここでも威信を失った。
フス戦争はジギスムント死去の前にフス派の内部対立により収束したが、
帝国はすっかり疲弊してしまった。
ジギスムントに息子は無く、娘婿でハプスブルク家のアルブレヒトが跡を継いだ。
また、生前ブランデンブルク辺境伯をホーエンツォレルン家に譲ったが、
これが後のプロイセンの前身となった。
ジギスムントが成功したのはコンスタンツ公会議によるローマ教会の再統一だけで、
同時にフスの処刑のしているのでこれも完全な成功とは言い難い。
戦えば劣勢な相手に負け続け、
内政でもフス戦争の弊害ばかり大きく功績を残せなかった。
ただ、後のハプスブルク家とホーエンツォレルン家の
躍進のきっかけを作ったのみである。
正に踏んだり蹴ったりである。フス戦争は自業自得な面もあるが。