スキピオ=アフリカヌス

[共和政ローマ]

  1. 第二次ポエニ戦争を勝利に導いたローマの将軍。 本名プブリウス=コルネリウス=スキピオ。名門コルネリウス一門の出身である。 また同名の孫と区別して大スキピオとも呼ばれる。 執政官だった同名の父に従ってハンニバル率いるカルタゴ軍と戦うが、 大敗を喫した。 成長したスキピオは異例の若さで軍の指揮権を手に入れ、 軍団を率いてハンニバルの本拠地ヒスパニアを攻略、 カルタゴノヴァなどを占領した。 この時、現地住民の使っていた短めの剣グラディウスを採用し、 以降ローマの正式軍装となる。 (剣闘士をグラディエーターと言うのはこれに由来する。) さらにハンニバルの弟ハシュドゥルバルの軍勢を破り、 またヌミディアの内乱で新ローマのマシニッサを支援し、 最強と呼ばれたヌミディア騎兵を手に入れることに成功する。 こうして満を持した状態で、慎重派のファビウスらを押し切ってアフリカへ出兵、 ハンニバルを20年ぶりにイタリア半島から引き離す。 この時カルタゴと休戦交渉をしていたが、 ハンニバルの軍勢が現れたことでカルタゴは態度を変え、 常勝将軍ハンニバルと戦う必要が生じた。 こうして両雄はザマにおいて対峙し、 ヌミディア騎兵等条件で勝っていたスキピオが勝利した。 こうして第二次ポエニ戦争を勝利に導いたスキピオは、 30代前半で早くも凱旋将軍の名誉を与えられ、 またアフリカヌス(アフリカの征服者)の称号も与えられた。 以降シリアを始めとするオリエント諸国と戦ったり (この最中亡命していたハンニバルと再戦して勝利している)、 元老院の首席にまで上り詰めたりしたが、 カトーを中心とする保守派との政争に破れ、 カンパーニアの所領に隠棲、 この地で若くして死去した。
    スキピオはローマ史でも屈指の名将である。 その戦法はハンニバルを踏襲したもので独創的とは言い難いが、 この時代項羽や韓信と並んで世界最強の名将であるハンニバルを彼が破ったのもまた事実である。 またその政治思想は先進的で、後のグラックス兄弟を初めとする平民派、 引いてはカエサルの帝国思想に通じるものがあった。 現代人から見ても、カトーより遥かに共感できるだろう。
  2. 第三次ポエニ戦争の時のローマの司令官。 1.の大スキピオの孫(正確には息子の養子)で、小スキピオと呼ばれる。 第三次ポエニ戦争では執政官としてローマ軍の指揮を執り、 カルタゴを陥落させ、これを完全に破壊した。 この時の
    「繁栄を極めたカルタゴですらこうして滅んでしまった。 何時の日か我がローマも同じ運命を辿るのだろうか。」
    という台詞が有名である(本当に言ったかどうかは別として)。 その後もローマの中心的政治家として活躍したが、 後のグラックス兄弟の兄ティベリウスの改革の時には保守派の代表として若い身内 (そう、グラックス兄弟も大スキピオの孫である)に反対した。 彼は学者を保護する一面もあったが、祖父ほどは進んでいなかったようである。

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