[ヨーロッパ−近代]
プロイセンの軍人。
後任のグナイゼナウと共に参謀本部の生みの親である。
フルネームはゲルハルト=ヨハン=ダーヴィド=フォン=シャルンホルスト。
イギリスの同君連合であったハノーファーで富農の子として生まれた。
父が軍務経験があり騎兵下士官にまでなった影響で軍人を志し、
士官学校へ入り卒業後ハノーファー軍の騎兵連隊付属学校の教官となった。
昇進と共に異動となり、今度は砲兵学校の教官となった。
この頃から軍事関連の論文や書籍を執筆し始め、
高い評価を得て軍事理論家として有名になった。
フランス革命戦争が始まると砲兵士官として従軍し、
功績を立てて理論だけではなく実戦でも有能であることを示した。
戦後名声を得たシャルンホルストには各国から招聘され、
貴族の地位を約束したプロイセンに仕官することにした。
プロイセンではベルリン士官研修所の教官となり、
兵站総監を兼任して多忙であった所長から全権を任され、
講義内容を改めた上で士官の教育に取り組んだ。
この講義を受けた士官から「戦争論」のクラウゼヴィッツを始め
有能な士官が輩出されることとなった。
さらに同僚と共に軍事協会を設立し、
新たな士官学校(後の陸軍大学)の設立などの軍事改革に着手していった。
しかし当時はフリードリヒ大王以来の古参の功臣などが改革に反発し、
実際の改革は進まなかった。
しかしプロイセン軍がイエナ=アウエルシュタットの戦いでフランス軍に大敗すると、
軍事改革の必要性が軍の上層にも認識されるようになった。
シャルンホルストは降伏して捕虜となっていたが、
捕虜交換によって帰国すると軍の再建に尽力し、
さらに講和後には軍備再編委員会の議長となり、
グナイゼナウらの同士と共に軍制改革に取り組んだ。
そして傭兵主体から徴兵制による国民軍への移行、
諸兵科連合の師団・旅団中心の編成への移行、
参謀の増強とその数を補うための平民の士官への登用といったことが行われた。
しかしこれらの改革はナポレオンの警戒を招き、
これを恐れた国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世によって改革は一時中止となった。
さらにシャルンホルストらがロシアとの同盟協議に向かう中、
王はフランスに屈してこれと同盟し、
失望したシャルンホルストらは軍をやめてシュレージェンに亡命した。
ナポレオンのロシア遠征が失敗すると再びプロイセンに呼び戻され、
シャルンホルストは兵站総監に復帰し、
総司令官ブリュッヘルの参謀として対フランス戦の作戦を立案に当たった。
そしてプロイセン軍はフランスと交戦したものの、
シャルンホルストは撃たれて負傷した。
それでもオーストリアを味方につけるため傷を押してウィーンへと向かった結果、
敗血症になって道中のプラハで死去した。
シャルンホルストはプロイセン参謀本部の生みの親として高く評価され、
また野戦指揮官としても有能と見做されている。
プロイセンから見て外国の平民出身ということもあって
なかなか軍の主導権を握れず改革は悪戦苦闘が続いたが、
最終的に後のドイツ帝国成立の立役者となる軍の組織の基盤を作り上げた。
そんなシャルンホルストであるが普段だらしない格好で物静かでぼそぼそ喋るという
凡そ軍人らしからぬ風貌であったと言われる。
それでも後任のグナイゼナウやクラウゼヴィッツらからは尊敬され、
参謀本部の父に相応しい人望を得ていた。