劉徹(りゅうてつ)

[中国−漢]

漢の武帝。漢の皇帝は頭に孝の字をつけることが多く、孝武帝とも言う。 父景帝の9男であったが、 宮廷内での女の権力闘争から皇太子に担ぎ出される。 即位した頃は祖父・父の平和によって 「穀物が余って倉から溢れ腐るほどある」状態であった。 しかし果断な劉徹はこの政策をそのまま受け継ぐ気は無かった。 その頃北方の匈奴の動きが活発になり、武力対決は避けられなくなった。 最初の謀略は気付かれて失敗するが、 衛皇后の弟衛青を将軍として起用し、匈奴と直接戦わせた。 以後衛青の功績は抜群で、匈奴に度々勝利し、大将軍にまでなった。 やがて衛青の甥の霍去病が衛青に代わって活躍するようになり、 驃騎将軍にまでなった。 この2人の活躍によって漢の領土は北へ大きく広がり、 匈奴に怯える必要も無くなった。 一方匈奴と共に戦うため遥か西方の大月氏に張騫を派遣した。 張騫は13年後に説得に失敗して帰国したが、 西域に関する多くの情報をもたらし、西方交易のきっかけとなった。 匈奴が脅威でなくなると南越(ベトナム)や朝鮮に出兵し領土を広げた。 それも落ち着くと西域にいる名馬汗血馬を求めて出兵、 既に亡くなっていた衛青・霍去病に代わって李広利を将軍とした。 しかしこの戦いは犠牲が多く、失敗ともいえた。 この戦いの最中将軍李陵が降伏し、 彼を弁護した司馬遷を宮刑にしてしまった。 内政を見てみると、制度を大きく改革し、 塩鉄を国家の専売としたりあらたな課税をしたりした。 また酷吏と呼ばれる法の権化ともいえる役人を用いて不評を買った。 また衛青・霍去病から皇后の親族いわゆる 外戚が権力に加わる前例をつくってしまった。 またそれまで流行していた道家にかえて儒教を大きく取り入れた。 これ以降儒教が中国の建前となっていった。 晩年は宮廷内部の陰謀から皇太子と皇后を死なせてしまい、 幼い太子を立て霍去病の弟霍光らに後事を託して死去する。 その死後霍光らによる外戚政治が漢の政治形態として定着し、 滅亡の遠因ともなった。
武帝劉徹は祖父文帝や父景帝とは対照的に、対外関係を重視し、 積極的に軍事行動を起こした。 その結果領土は広まったが、国庫の貯えを使い果たしてしまった。 内政では酷吏を登用し、増税をするなど必ずしも上出来とは言い難い。 また、必要以上の外征や外戚の登用など、 次代に悪い影響を残してしまった。 何かと問題の多い大人物であった。

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