劉荘(りゅうそう)

[中国−漢]

漢の明帝。後漢の第二代皇帝。 光武帝劉秀と陰麗華の長子(劉秀の子としては四男)として遠征先の元氏で生まれ、 最初の名は劉陽であった。 成長して東海公に封じられたが、 その後皇后の郭聖通が廃され陰麗華が皇后となったため東海王に格上げされた。 皇太子であった劉彊は後ろ盾が無くなったため度々辞退を願い出、 これが容れられて東海王となり、代わって劉陽が皇太子となった。 その際名を陽から荘に改めることも命じられた。 父劉秀が死去すると劉荘が即位した。 内政面は父の方針を継承したが、 外交面ではそれまでの消極策を転換し西域への積極的な進出を図り、 班超らの活躍もあって勢力圏を広げた。 明帝の治世は父の光武帝・息子の章帝と並び後漢の最盛期となり、 それ以後問題となる外戚・宦官による政争も抑えられ安定した統治を実現した。 在位18年で死去し、皇太子の劉[火旦]が章帝として即位した。

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