劉詢(りゅうじゅん)

[中国−漢]

漢の宣帝。後世、前漢中興の祖と呼ばれた名君。 武帝の太子劉拠の孫の劉病已として生まれたが、 巫蠱の獄によって祖父は自殺し、 父や一族は処刑され赤子の劉病已のみが生き残った。 劉病已は投獄されたが取り調べを行った丙吉の援助で育てられ、 後に祖父の名誉回復によって釈放されて 祖母の実家に預けられ民間で育てられた。 長じて遊侠を好み闘鶏や乗馬を好むワイルドな人物になったが、 劉拠の部下であった張賀が学費を出して学問も修めた。 武帝の跡を継いだ昭帝が早世し劉賀が即位したが、 品行不良(及び霍光との対立)によって廃位されると、 赤子のときに援助した丙吉が霍光と共に劉病已を推薦し、 陽武侯を経て宣帝として即位した。 同時に二文字の諱(本名)では忌諱が困難であるとして諱を病已から詢に改めた。 当初政治の実権は霍光に委ねられていたが、 霍光の死後劉詢はその一族の権限を徐々に削り、 反発て反乱を計画すると事前に察知して一族を処刑した。 以後劉詢は親政を開始し、 法家主義に従って政治を行った。 減税や穀物価格を維持するための常平倉の設置・犯罪取り締まりのための刑罰強化・ 獄吏による虐待の禁止・ 塩の値下げなどの政策を実施して疲弊していた国力を回復させ、 外交でも匈奴を弱体化させ降伏に追い込むなどの成果を挙げた。 これらの実績から宣帝劉詢は前漢中興の祖と呼ばれるようになった。 劉詢は現実主義で懐古的な儒教を嫌い、 太子の劉ソウが儒教に傾倒すると廃太子を考えるほどであったが、 劉ソウに跡取り息子が生まれると廃太子の機運が萎み沙汰止みとなった。 劉詢の死後劉ソウは儒教を重用して王莽らの台頭を招き、 これが前漢を滅ぼす切っ掛けとなった。
劉詢は皇帝の曾孫でありながら陰謀によって一族を失って民間で育ち、 後に返り咲くという物語もかくやという波乱万丈の前半生を送った (そして登場する歴史ドラマが作られた)。 またその育ち故前例や格式に縛られない現実主義者となり、 傾きかけていた前漢の立て直しに成功した。 しかし息子にはその政策は受け継がれず、 儒教偏重によって国を亡ぼすことになってしまった。

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