[中国−秦・楚漢]
漢の高祖。沛の出身で字は季。
ちなみに名の邦はアニキ、字の季は末っ子または4男の意味である。
さらに父は太公=おじさん、母は劉媼=劉おばさんと言った。
名前もいい加減な庶民の出身だった。
鼻が高く額が出た龍顔であり、蛟龍の子であるという伝説も生まれた。
ロクに働かないヤクザ者で、亭長(お巡りさん)になるが、
やはり仕事をサボって遊んでばかりいた。
しかし皆に人気があり、仲間内の兄貴分となっていた。
項羽と同じく始皇帝の巡遊を見たとき
「嗟呼、大丈夫将にかくの如くあるべし」と感嘆したという。
何となくゆったりとして貫禄があった。
地元の名士呂公の目に留まり、その娘(後の呂后)を娶った。
囚人を咸陽に運ぶ途中脱走が相次いだため自分も脱走し、
野盗になっていた。
陳勝・呉広の反乱が起こると彼も地元で旗揚げし、
苦戦を重ねながらも勢力を保ち、項梁の軍に合流した。
この頃は出身地から沛公と呼ばれた。
項梁の死後懐王に関中の攻略を命じられる。
項羽が秦の主力と戦っている間に南へ迂回し、
主に外交によって都市を次々に服属させる。
咸陽に入ると部下の進言に従って降伏した秦王を許し、
宮殿の宝物を封印し、兵に略奪を禁止した。
また、秦の厳しい法を廃止し、
殺人・傷害・盗みだけを禁じた法三章を示し、関中で人気を高めた。
項羽が迫ってくると鴻門で会し、
ひたすら謝って部下の張良や樊[口會]の助けもあって命は助かる。
しかし、約束の関中はもらえず、代わりに山奥の漢中に押し込められる。
その後雌伏していたが、韓信を大将軍とし、機会を見て関中に出兵し、
瞬く間に制圧する。
義帝が殺されたことを知ると諸侯を糾合し、項羽に戦いを挑む。
項羽の留守中に本拠地彭城を攻め落とすが、
油断している隙を項羽に突かれて敗北、以後徐々に項羽に押されていく。
しかし、三傑とよばれた張良・蕭何
・韓信を始めとする優秀な部下のおかげで持ちこたえ、
黥布の寝返りや彭越のゲリラ戦、
韓信の華北制圧によって逆に項羽を追いつめる。
最後に垓下で勝利して項羽を死なせ、天下をとる。
その後諸侯に推戴されて皇帝となり、漢の高祖と呼ばれることになる。
しかし、その後韓信・彭越・黥布ら功臣を次々に粛正してしまう。
そのせいか、匈奴と戦って敗北し、不利な条約を結んでいる。
最後に劉姓以外の者を王にすることを禁じ、王となってから12年、
皇帝となってから7年目に死去した。
劉邦はライバル項羽の裏返しのような人物で、
戦術や戦略は全然大した事が無かった。
しかし、自分でも皆に言ったように、
度量が広く優秀な部下を使いこなすことができた。
韓信も言ったようにまさに「将の将」であった。
しかし、天下を取ってから功臣を粛正したのは
相手にも原因があるとはいえ惜しいことであった。
同じ地元沛の出身の仲間ですら気を使わなければならなかった。
これも権力の魔性故なのかもしれない。
もう1つ劉邦には武器があった。
庶民生まれ故かどうかわからないが、雑草のようなしぶとさがあった。
逃げるときに自分の子を突き落とし、
御者の夏侯嬰に叱られたこともあった。
だが、このふてぶてしいまでの生き残りの能力のおかげで、
何度敗北しても逃げ延びて復活することができた。
こちらの方が劉邦の本当の力の源なのかもしれない。