[中国−後漢末]
後漢末の武将。字は子明。
関羽を破って荊州を征服した名将であり、
「刮目」のエピソードでも知られる。
孫策配下のケ当の義弟(妻の弟)であり、
その縁で孫策に仕えた。
ケ当が死去すると張昭の推薦で後任となって部隊を引き継ぎ、
以後赤壁の戦いやその後の荊州の戦いでは部将として活躍した。
呂蒙は文盲だったと言われる程無学であり、
同僚のショウ欽と共に主君である孫権に勉学を促されても多忙を理由に断ったが、
逆に「主君である私より忙しいということは無いだろう」と窘められ、
一念発起して勉学に励むようになった。
その後周瑜の後任となった魯粛と出会い、
議論をすると質問に淀みなく答え、
魯粛を大いに感心させ「呉下の阿蒙(蒙ちゃん)に非ず」と評価された。
これに答えたのが「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」の言葉である。
これ以降文武両道に長けた一人前の「士(士大夫)」と見做されるようになった呂蒙
(とショウ欽)は一部将以上の働きを期待されるようになり、
劉備・関羽と荊州で争った際には軍を率いて三郡を平定し、
交渉を有利にさせ支配権を得ることに貢献した。
魯粛の死後には当初予定していた厳oが辞退したこともあり、
呂蒙が後任となって荊州方面の全軍を統括した。
当時関羽は劉備の漢中征伐に刺激されて曹仁が守る樊城を攻撃していたが、
驕慢な振る舞いが目立ち孫権は怒りを募らせていた。
呂蒙はこのまま曹操と対立を続け北進するよりも荊州を得る方を優先するべきとし、
密かに孫権や陸遜と謀って荊州攻撃の準備を進めた。
関羽が樊城に掛かり切りになり後方の備えを疎かにすると攻撃を開始し、
瞬く間に荊州を制圧した。
その際略奪を働いた部下を厳罰に処して人心を掌握し、
そのため関羽軍の兵の多くが降伏した。
行き場を失った関羽は捕らえられて処刑され、
荊州南部は完全に孫権によって征服された。
その後呂蒙は病に倒れ、間もなく死去した。
呂蒙は若い頃から戦場で働くも無学故に猪子武者と軽く見られていたが、
主君に促されて勉学に励み上司の魯粛を関心させるまでになった。
魯粛の後任となると関係の悪化から猛将関羽と戦ったが、
策で敵の油断を招き領土制圧後は公正な態度で民心を安定させ、
正に名将と呼ぶに相応しい働きぶりであった。
後年神にまでされる関羽に勝ってしまったため
三国志演義などでは悪役のレッテルを貼られてしまったが、
実際には傲慢故に失態を犯した関羽より余程国士と呼ぶに相応しい人物と言えよう。
ただその後呉は積極的に版図を拡大しようとせず江南に籠っていたため、
戦略的に荊州侵攻は正しかったかはいささか疑問ではあるが。